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家康を討ち取るとても秀頼の基盤の弱く長続きせじ 横領者の天下二百数十年も続くとは君も思はざりけむ 小気味よき生きざまなるべし四十年の命の限りを燃やし尽くして この短歌を作った当時は、西軍が勝っていたとしても、豊臣政権の維持は難しかったのではないかと思い、こういうものを詠みました。しかし、三成の執政政治も案外うまくいったかもしれないとは考えています。むろん、東軍勢力が一掃されてのことですが。ゲームの世界などでは関ヶ原の戦いに勝った西軍が江戸城攻めを行うという展開もあるのですが、よしんば家康が関ヶ原で死んだとしても、秀忠軍が残っていますし、徳川家を壊滅させるのには時間がかかったかもしれません。しかし、西軍に力があれば、東軍だった者も逆に寝返りますし、家康の味方をしたものの、秀頼様に楯突く気はなかったと恭順の意を表明してくる者も出るでしょうから、政権がそれほど不安定なものにはならなかったかもしれません。しかし、そのためには毛利、上杉、島津など雄藩の後ろ盾が必要だったでしょう。 五人組の制度や検地、刀狩りなどは三成が中心となって始めたものですが、そういうところはしっかりと江戸幕府が受け継いでいます。江戸幕府が泰平の世を築いたこと、独自の文化を作り上げたことを私も評価するのにやぶさかではありませんが、一番の問題は鎖国したことです。中国やオランダとは貿易をしていましたから、鎖国には当たらないとする学者もいますが、世界に国を閉ざしていたことに変わりはありません。そのため、世界から取り残された形になり、明治の世になって西欧列強に追いつこうと必死になり、それが結果的に軍国主義の時代を生み出し、太平洋戦争へと突入していったのです。 むろん、家康自身は国を閉ざすことは念頭に置いていず、世界に目を開いていた人物でしたが、次第に幕府が守りの態勢に入った結果の鎖国でした。 家康を重農主義者、三成を重商主義者と言ったのは作家の堺屋太一氏でしたが、関ヶ原の戦いの敗北によって、重商主義が後退したという見方もできます。三成なら鎖国という選択は取らなかったでしょうし、貿易を促進したかもしれません。 三成は四十一歳で処刑されましたが、十五歳で秀吉に仕えてから二十数年、それこそ密度濃い人生を送ってきました。秀吉政権の執行機関で中心的な役割を果たしてきた三成が、秀吉と運命を共にするのは、自然なことだったかもしれません。今で言えば、事務次官や本社部長に当たる三成が、国や会社と運命を共にしたと言えます。やるだけのことをやって、そういう意味では自分の人生に悔いはなかったでしょう。 |
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