関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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help リーダーに追加 RSS 石田三成の実像140 「細川ガラシャ・忠興と三成」8 細川家と三成とは同じ九曜紋

<<   作成日時 : 2008/05/20 23:25   >>

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 写真は勝竜寺城公園にあった九曜紋を撮ったものです。細川氏の紋が九曜紋ですから、公園にその紋があるのは不思議ではありません。しかし、石田三成の家の紋も実は九曜紋であり、細川氏と同じなのです。偶然の一致なのかどうかはよく分かりません。九曜とは日、月、火、水、木、金、土の七星に二星を加えたものであり、もともとインドの天文学に由来するものです。日本には密教の星辰信仰を通じて広まり、陰陽師が星で人の運命を占いました。武将たちもそういう占いを好んだ者が少なくなかったと言います。
 明治時代に大徳寺三玄院の三成の墓が発掘され、その頭蓋骨から三成の顔が復元されました。その顔を踏まえて、日本画家の前田幹雄氏が三成の肖像画を描きましたが、その絵には九曜の紋が描かれていました。
 三成の次男が関ヶ原の戦いの後、津軽に逃れて杉山源吾と名を換えて、津軽藩に家臣として仕えましたが、その杉山家に伝わる三成画像には、「大一大万大吉」の紋が描かれています。また石田家の紋は下がり藤に「石」の文字が入ったものであり、白川亨氏が書かれた「石田三成の生涯」の本の箱には、この紋が大きく描かれています。
 細川忠興が九曜紋を使うようになったのは、信長の時代からだと言います。信長の刀の柄に入っていた九曜紋を忠興が気に入り、それを使うことが許されたようです。また伊達政宗が細川家の九曜紋を気に入り、その紋を使う許可を細川家に求めたところ、認められたという話も伝わっています。
 細川忠興は関ヶ原の戦いの功績により、豊前小倉藩39万9千石に加増されます。大坂冬の陣にも参陣しようとしますが、島津や毛利の動きを牽制しつつ門司まで来た時、和睦の知らせが入り、領地に引き返します。夏の陣では藤堂高虎の軍に入り、八尾の戦い、天王寺口の戦いに参加しています。
 忠興は1620年に隠居し、三男忠利が家督を相続し肥後54万石の領主になり、熊本城に移りますが、忠興は八代を隠居所にします。忠興がなくなったのは45年であり、享年83歳でした。戦乱の世を巧みに生き延び、長生きしたと言えますが、ガラシャ夫人を失い、長男を廃嫡し、次男を切腹させ、四男に先立たれるなどの不幸にも見舞われ、起伏に富んだ人生でもありました。

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