関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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help リーダーに追加 RSS 石田三成の実像177 「関ヶ原探訪記」28 大谷吉継の墓1 三成との友情

<<   作成日時 : 2008/09/02 04:45   >>

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 写真は大谷吉継の墓の碑と説明掲示板のあたりを撮ったものです。奥に見えているのが吉継の墓です。少し山を登ったところにありますが、前にも書きましたように、宇喜多秀家の陣跡から大谷吉継の墓まで自転車で来るのが大変でした。自転車で十数分の距離ですが、藤古川ダムを渡らねばならず、段差があるので、自転車をかついで上り下りする必要があり、体力を使いました。ウォーキングすればいいのでしょうが、全体を歩くのは、1日がかりになります。
 むろん、大谷吉継の墓は便宜的に作られたものであり、大谷吉継の首は今でも、関ヶ原のどこかに埋まっているはずですが、場所は特定されないままです。大谷吉継が自分の首は敵に見られないように密かに埋めてくれと家臣の湯浅五助に頼み、湯浅もそれを忠実に守ったためですが、今は大谷吉継の墓と湯浅五助の墓が並んでいます。いかにも山中といったところにありますが、ハイキングしている人の姿が数名ありました。
 大谷吉継は秀吉政権において三成と共に奉行として活躍し、結局、三成と運命を共にしました。吉継は三成の友情に殉じた形でなり、その点で今でもわれわれの心を強く打つのです。
 大谷吉継は近江の生まれであり、その点も共通しています。現在の伊香郡余呉町大谷で1559年に生まれましたから、三成より1歳年上になります。三成が秀吉に仕えたのは1574年ころとされていますが、大谷吉継も恐らく同じころ、秀吉に召し抱えられたのだと思われます。そうだとすれば、吉継16歳の時です。吉継と三成は同じころに秀吉の近習になった同郷の士であり、その頃から二十数年に及ぶ親交を結んだことになります。
 三成と吉継との友情関係については有名な逸話があります。茶会の席で、ハンセン病を患っていた大谷吉継が誤って茶碗に鼻汁のようなものを落としてしまった時、他の同席者はそれを嫌がって茶碗に口をつけませんでしたが、三成は何事もなかったかのように、その茶を飲み干してしまったために、吉継は大いに恩を感じて、三成のためなら命を捨てる決心をしたと言います。司馬遼太郎は小説「関ヶ原」の中で、そのエピソードは、友情という近代的な倫理を理解することのできなかった当時の人々が、吉継と三成との親密な関係を「恩」というもので説明しようとしてできたものだと述べています。
 その茶碗の茶を飲み干したのが秀吉だったという異説もあり、その話の場合だと、吉継は豊臣家のために命を捧げようと決意したということになります。
 いずれにせよ、吉継と三成の親密さは当時としては珍しいものだったに違いありません。

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