関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像210 「関ヶ原合戦祭り」13 「義の人・三成」5 威嚇された小早川隊の裏切り

<<   作成日時 : 2008/11/15 22:28   >>

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 写真は、軍を動かさない小早川隊に業を煮やした家康が、小早川のいる松尾山に鉄砲を撃ちかけて裏切りを促す場面を撮ったものです。「合戦絵巻2008 義の人・三成」の中では、鉄砲隊が活躍し、その銃声が何度も響き渡り、イベントを盛り上げていました。
 普通なら、鉄砲を自分の方に向けられたら、逆に頭に来て、家康に向かってくるのが本当でしょうが、その脅しにたやすく乗るほど、小早川秀秋は家康を恐れていたのだと思われます。まるで、大人が赤子の手をひねるようなもので、家康の思惑通りにその作戦が成功し、東軍は 関ヶ原で大勝利しました。家康はこれで天下人への道を歩んでゆけましたが、逆に裏切った小早川は罪の意識に駆られたに違いなく、それがために若死にしてしまったのではないかという気がします。
 この裏切りが関ヶ原の戦いの勝敗を決めたために、小早川は叔母に当たる秀吉未亡人の北政所の意向を受けていたのだということや、三成が西軍統率力を欠いていたなどと言われます。しかし、前にも述べたように、北政所の意向に沿っていたとするなら、小早川はもっと堂々としていいはずであり、小早川の兄弟である木下家の者たちは大半が西軍についています。また、小早川の動きが怪しいということは三成も吉継も気づいており、西軍の関ヶ原への移動も松尾山の小早川を牽制する意味が大きかったということを三成会代表の人をはじめとして複数の人たちが主張しておられます。小早川に重要拠点である松尾山に勝手に入られてしまったことが、結果的に、この戦いの勝敗の行方に決定的な作用を及ぼしてしまいました。

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 写真はその小早川秀秋が大谷吉継に攻めかかるところを撮ったものです。真ん中で赤い陣羽織を着ているのが小早川に扮した女性です。大谷吉継は小早川秀秋の裏切りに備えていたと言われていますが、小早川隊は一万五千人もおり、大谷吉継隊・大谷吉勝隊・平塚為広隊などを含めて山中村には西軍は五千人しかいませんでしたから、攻めかけられたら、なかなか防ぎきれるものではありません。
 そういう状況の中で大谷吉継は小早川隊を一時はよく撥ね返したと言います。しかし、西軍の赤座隊・朽木隊・小川隊・脇坂隊たち四隊も裏切るに及んで、大谷吉継隊は総崩れとなります。裏切った四隊で四千人、小早川隊も合わせると二万の軍勢になりますから、西軍は多勢に無勢の状態になりました。四隊の者たちは小早川の裏切りを知って、これは西軍に勝ち目はないと判断して、自分たちもその動きに便乗したのでしょう。様子見をしている武将たちが関ヶ原には多すぎました。それだけ、家康の力が強大だったという証であり、家康の顔色をうかがっていた者たちが少なくなかったということでもあります。自分からは動かず、周囲の状況をうかがい、強い者を見極めた上で、その方になびくという傾向は、現代でも変わっておらず、関ヶ原に現代の縮図を見る思いがします。

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