関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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help リーダーに追加 RSS 石田三成の実像238 「佐和山城探訪記」8 塩硝櫓跡入口 福島次郎作・河瀬織部の奮戦

<<   作成日時 : 2009/01/12 00:24   >>

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 写真は塩硝櫓跡入口の道標を昨年9月14日に撮ったものです。佐和山城落城の際には、塩硝櫓で火薬が爆発し、火が回ったと言われています。もっとも、前にも触れたように、城跡に散乱していた瓦片に城が焼けた痕跡はありませんから、この話も実際にはなかったことかもしれません。一般的には、塩硝蔵に火を放ったのは福島次郎作であり、彼はこの後、大洞の経堂で自害したと言います。
 福島次郎作は老齢のため、関ヶ原の戦いに加わらず、佐和山に居残っていました。彼は大砲を撃ったり、矢を放ったりし、弓矢の名人としての本領を発揮しました。次々と矢を放ち、自分の矢が尽きたため、山田嘉十郎の名が刻まれた矢を用いました。東軍は嘉十郎が矢を放ったと思い込み、嘉十郎の評判が東軍の間で高まったということです。
 山田嘉十郎本人は、早々と佐和山城を脱出していました。嘉十郎は三成の老臣であり、二番家老であったとも言われています。佐和山城太鼓丸を守っていましたが、東軍が来襲してくると知ると、龍譚寺地先から船で逃走しました。もっとも、三成の幼児と乳母を連れて西国に逃れたという説もありますし、後に名前を変えて細川家に千石で召し抱えられたという話も伝わります。
 塩硝櫓は西の丸があったあたりであり、佐和山古地図には「塩櫓」「金蔵」などと記されています。西の丸と二の丸の尾根にはさまれた谷をせきとめて水がためられており、そこが「水の手」と呼ばれているところであり、田中吉政はこの水の手口から佐和山城を攻めました。
 この水の手口を守っていたのが、三成の家臣である河瀬織部であり、奮戦しました。「佐和山落城記」には河瀬左馬之助が水の手を守っていたとありますが、左馬之助は織部の息子です。左馬之助は7月、三成の使者として岐阜城に赴き、城主の織田秀信を説得して、西軍に付かせます。その後、美濃福束城へ行き、城主の丸毛三郎兵衛兼利を味方に付けています。左馬之助は三成の兵二千と共に岐阜城の援軍として赴いていますが、新加納・米野の間で東軍と戦って敗れます。8月22日、岐阜城の外郭で奮戦しますが、瑞龍寺砦で戦っていた三成の家臣の柏原彦右衛門が斃れたと聞き、岐阜城の本丸に退却します。岐阜城は翌日に開城し、織田秀信は降伏します。その後の左馬之助の消息は分かりませんが、秀信に付き添ったとも言われています。しかし、佐和山城を守っていたのは、父親の織部だったと思われ、「佐和山落城記」は息子の名前が誤って書かれたのではないでしょうか。あるいは織部が左馬之助と名乗っていた時期があり、その名前で「佐和山落城記」の作者である山田宇吉郎に伝わってのかもしれませんが。

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