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zoom RSS 大阪探訪70 大坂夏の陣400年2 安藤正次の墓・樋之尻口地蔵堂の話は5月6日と7日のことが混同

<<   作成日時 : 2015/03/07 12:33   >>

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写真は大坂夏の陣で亡くなった安藤正次の墓を3月4日に撮ったものです。昨日付拙ブログ記事で紹介した樋之尻口地蔵堂とは道をはさんですぐ北側にあります。この墓は毎日放送の番組「ちちんぷいぷい」の中のコーナー「昔の人は偉かった」の近畿縦断622キロの旅では取り上げられていませんでした。この旅では真田幸村ゆかりの地として、この後、大坂夏の陣で幸村が本陣を置いた茶臼山と、戦死した場所である安居神社を訪ねていました。
 安藤正次は5月7日、徳川秀忠の使者として前田利常隊・本多康紀隊へ行った際、大坂方の武将に遭遇し首を挙げるものの、深手を負って秀忠のもとに戻り、平野郷の願正寺で療養をしますが、その甲斐なく、夏の陣が終わった後の19日に自害します。
 樋之尻口地蔵堂に仕掛けた地雷で地蔵の首が飛んだのは5月7日だと、説明掲示板に書かれていることを一昨日の拙ブログで記しましたが、実際、幸村が大坂城に引き揚げたのは5月6日のことであり、7日は幸村が徳川方相手に奮戦し討死した日です。この話は6日、7日のことが混同されて伝わっているような気がします。
 6日、道明寺の戦いが行われましたが、真田幸村軍と毛利勝永軍が道明寺に到着した時には、後藤又兵衛基次と薄田兼相は討死した後でした。幸村たちの到着が遅れたのは濃霧のせいでした。幸村たちはその後誉田へ向かい、伊達軍と戦い、優勢に戦いを進めますが、八尾や若江の大坂方の敗退(木村重成も戦死)が伝わると、幸村たちは大坂城への撤退が命じられます。
 しかし、この時の状況について、渡邊大門氏の「大坂落城  戦国終焉の舞台」(角川選書)の中で、「徳川方は、逃げる豊臣方を追撃しなかった。信繁は『関東勢は百万の勢力を誇るというが、男はただの一人もいないではないか』と嘲笑したという(『北川覚書』)」と記されています。
 そうだとすれば、大坂城に引き揚げる幸村が地雷をしかけたという話も怪しくなってきます。樋之尻口地蔵堂から南東に行ったところに、志紀長吉神社と真田幸村休憩所(最寄り駅地下鉄谷町線長原駅)があります。ここへは今まで二度訪ねましたが、志紀長吉神社は、幸村が大坂城に引き揚げる途中に、戦勝を祈願して刀剣と六連銭文の軍旗を奉納したと云われています。真田幸村休憩地も、その時、幸村が立ち寄って休憩した場所だと伝わります。
 志紀長吉神社への祈願や真田幸村休憩所と一連のこととして、樋之尻口地蔵堂に地雷を仕掛けたという話も捉えられているような気がします。家康や秀忠が平野に着いたのは7日のことであり、地雷の話はそれが事実だとすれば、6日に仕掛けたものが、7日に爆発したことになります。
 

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