関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1401 大坂夏の陣400年22 記事「秀吉37歳 初めての城下町」・政策の立案実行

<<   作成日時 : 2015/05/12 15:45   >>

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画像
 写真は長浜市の豊公園の中にある長浜城本丸跡碑を1月24日に撮ったものです。向かって左側に写っているのは「さくら名所百選の地」の碑です。桐野作人氏の講演会「石田三成と関ヶ原合戦」へ行く前に撮りました。
 その時以来、長浜には行っていませんが、昨日の朝日新聞夕刊の連載記事「探訪 夢のまた夢 豊臣興亡400年」の第23回「秀吉37歳 初めての城下町」で、長浜のことが触れられ、それに関連して石田三成のことも少し取り上げられていました。
 記事では、「代々の家臣を持たなかった秀吉は、見どころのある若者をこの地で取り立て、家臣団を増やした。治安維持のための五人組制度、農村支配の基礎になった石高制など、江戸幕府に引き継がれた主な政策は、長浜時代からの家臣が考え進めた」と記されています。
 ここには三成の名は直接書かれていませんが、この文のすぐ後に、長浜駅前にある秀吉・三成出逢いの像が取り上げられています(その出逢いの像の写真も掲載されています)から、政策を推し進めた家臣として三成のことが第一番に考えられているのは明らかです。
 豊臣政権の政策を立案実行した三成たち奉行衆の多くが、関ヶ原の戦いで敗れた後、謀反人のレッテルを貼られて奸臣扱いされたにもかかわらず、その政策だけは徳川幕府によっていいとこ取りされたのですから、こんな理不尽なことはありません。
 ようやく近年になって三成たちの再評価が始まり、こうして新聞記事にも書かれるようになったわけですが、その反面、ドラマや小説では、相変わらず三成=策謀家のイメージで描かれることが少なくありません。今までの悪いイメージがそのまま踏襲されており、旧態依然としている描き方に不満を覚えることが少なくありません。拙ブログ記事でもたびたび触れたように、昨年の大河ドラマ「軍師官兵衛」における三成の描き方はひどいものでした。
 その記事では長浜城について、築城は信長の命令であり、「琵琶湖を自由に軍事利用し、北陸方面を押さえる意味があった」こと、しかし「城下町づくりは、秀吉による独創の可能性が高い」こと、「碁盤の目のように整然と区切られた町並み」は「商いの集荷や運搬の利便を考え、荷車が通りやすくした」こと、秀吉は「長浜から急成長した」こと、「『長浜発の城下町』が全国のあちこちで再現されていくことになった」ことなどが記されています。これらは専ら長浜城歴史博物館学芸員の森岡栄一氏の解説に基づくものです。

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