関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 大阪探訪92 四天王寺の南大門・怖かった仁王像 夏の陣400年25 真田幸村の秘策2

<<   作成日時 : 2015/05/16 18:39   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

画像
 写真は四天王寺の南大門を5月5日に撮ったものです。この南大門の階段を上がったあたりでも、子供の頃よく遊びました。両側に仁王像が建っていますが、当時は目でにらみつける表情に、怖さを覚えたものです。当時は回廊の外側も歩いて回れるようになっていたので、そこも遊び場所でしたが、残念ながら今は柵があり、回れないようになっています。泊まるところがない人がここで寝泊まりしていたので、それを防ぐためだと思われます。
 昭和56年発行の桂米朝さんの「米朝ばなし 上方落語地図」(毎日新聞社)の「天王寺」の項にも、この南大門あたりの写真が掲載されていますが、今の様子とほとんど変わっていません。四天王寺もそうですが、寺社は昔とあまり変わっていないので、安心感を覚えます。
 さて、大坂夏の陣の天王寺・岡山の戦いにおける真田幸村(信繁)の秘策について、前述したように、、「歴史人 4月号 真田幸村VS徳川家康」(KKベストセラーズ)の「日本一の兵(つわもの)と謳われた幸村はいかに家康を追いつめたのか?」(監修・文 桐野作人氏)の中で、「総大将秀頼の出陣」「明石軍迂回による挟撃作戦または明石隊の奇襲」「徳川方・浅野長晟を内通者に仕立てる攪乱作戦」の三点が挙げられています。
  その第一点に関しては、そのために幸村は大助を秀頼の元に派遣したが、「秀頼の優柔不断のために徒労に終わった」と、同書の本文に記されています。秀頼不出馬に関しては、拙ブログで触れたように、真偽は定かではないものの、家康の謀略があったという記述が「大坂日記」にあることが、福田千鶴氏の「豊臣秀頼」(吉川広文館)に記されています。また福田氏の同書には、「秀頼敗北の最大の原因は、大坂城内の意思決定が分裂していたことにある」とも指摘されています。
 第二点については、「この策を実現するためには、大坂方が開戦をできるだけ引き延ばす時間稼ぎが必要だった」が、「大坂方の寄り合い所帯という弱点のせいで」、「それ以上こらえ切れずについに発砲に踏み切った軍勢が出てしまい、この策は水泡に帰した」と記されています。
 第三点については、「幸村は紀州街道から伊達政宗の軍勢が北上してくるのを察知して、真田忍びを使い、『浅野が裏切ったぞ』と触れ回らせて徳川方の攪乱を図った。この陽動作戦は幸村の家康本陣への突入を容易にするという効果があったのかもしれない」と記されています。
このことに関連して、橋場日月氏の「知れば知るほど面白い 人物歴史丸ごとガイド 真田幸村」(学研)には、幸村隊に向かっていた松平忠直隊に浅野長晟が裏切ったという流言飛語が出て大混乱したという内容の記述が「元和先鋒録」にあることが紹介され、これも一説には幸村の手の者の工作だったという見方があることも示されています。

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
大阪探訪92 四天王寺の南大門・怖かった仁王像 夏の陣400年25 真田幸村の秘策2 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる