関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1403 大阪探訪93 天鷲寺にある柴田勝家とお市の供養塔 勝家の再評価

<<   作成日時 : 2015/05/17 10:27   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

画像
 写真は天鷲(てんじゅう)寺にある柴田勝家とお市の供養塔を5月5日に撮ったものです。地下鉄谷町線四天王寺前夕陽丘駅の北出口の近くにあります。私が生まれ育ったところから歩いて5分余りのところです。ここに柴田勝家とお市の墓があることを今まで知りませんでしたが、朝日新聞夕刊の連載記事「探訪 夢のまた夢 豊臣興亡400年」の第22回「勝家 武骨者はレッテル?」でこの墓のことが取り上げられていました。
 その記事には、二人の供養塔について「最初はお市の方の長女・淀殿が柴田家の菩提寺と同じ天台宗のこの寺に建てた。大坂の陣の後、荒れ果てていたが、約200年後の文化文政年間、大坂に落ちのびた子孫が再建した、とされる」と記されています。
 この5日、安居神社での幸村の慰霊祭の後、一心寺、四天王寺、私が生まれ育った長屋あたりを見て回りましたが、天鷲寺の墓地にも立ち寄りました。
 その新聞記事には、柴田勝家について、福井市立郷土歴史博物館館長の角鹿尚計(つのがなおかづ)氏の見解も掲載されています。
 すなわち、「秀吉ほどの野心はなかったと思います。織田家を存続させ、自分は大名たちをまとめる家老格に、と考えていたようです」「刀狩りは秀吉より先に勝家が手がけた。刀を鋳つぶし農具にした。氾濫が多い九頭竜川に舟橋を架ける際、舟と舟をつなぐ鎖にも使った」「有能な政治家でした。ただの武骨のように描かれるのは秀吉を持ち上げるためでしょう」と。
 柴田勝家がドラマや小説で武骨者に描かれることは相変わらず多く、ステレオタイプ的に捉えられていますが、勝家の実像も検討する必要があると痛感しました。
 豊臣政権下における刀狩りや検地では、三成たち奉行衆が中心的な役割を果たしました。
 勝家とお市が亡くなったのは、天正11年(1583)4月24日ですが、三成がその時、越前北庄にいたということを示す史料はありません。藤井讓治氏の「豊臣秀吉の居所と行動(天正10年6月2日以降)【織豊期主要人物居所集成(思文閣出版)】には、秀吉がその日北庄にいたことを示す典拠として、7月29日付多賀谷重経宛秀吉書状が挙げられています。普通に考えれば、秀吉近臣である三成もその時、北庄にいて、落城を見届けたのではないでしょうか。
 勝家の敗北を決定づけたのが、賤ヶ岳の戦いですが、三成がその戦いの前に諜報活動に関わっていたことを示す三成書状が残っています。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1403 大阪探訪93 天鷲寺にある柴田勝家とお市の供養塔 勝家の再評価 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる