関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 大阪探訪96夏の陣27 秀頼・淀殿ら自刃の地碑「歴史秘話ヒストリア 戦国のプリンスいざ天下取りへ」1

<<   作成日時 : 2015/05/22 22:01   >>

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 写真は大阪城にある豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地碑を5月9日に撮ったものです。「天下泰平の灯」のイベントの前に立ち寄りました。極楽橋の方から上っていく途中にあります(大阪城の後ろ側から下ってもいけます)が、コースとは若干離れているので、気づかずに通り過ぎていく人も少なくありません。特に外国人観光客の場合はそうですが、碑の意味もわからないので、無理ないところです。ガイドさんの説明がほしいところです。
 一昨日に放送された「歴史秘話ヒストリア 戦国のプリンスいざ天下取りへ〜大坂の陣400年・豊臣秀頼」のラストでも、この自刃の地碑が写っていました。
 この番組は、今までのひ弱でマザコンなどと思われがちな秀頼像を覆すものであり、解説もしていた北川央氏や福田千鶴氏の見解が大きく取り入れられていました。
 秀吉の死後に、秀頼がまず行った方広寺の改修の意味について、北川氏は次のように述べていました。
 「方広寺は豊臣家の菩提寺であって、なおかつ日本にあったすべての仏教宗派の上に立つ寺として存在していた。寺を復興することは、豊臣家が国の支配者だと改めて世に示すことであった」と。
 (むろん、秀吉が亡くなった時は秀頼はわずか6歳ですから、方広寺の改修に関しては、母である淀殿の意向が大きく働いていたことは言うまでもありませんが)
 「秀吉は亡くなるにあたって国の政治を徳川家康に委ねると遺言した。その遺言にのっとって家康が政治をしているのであって、それは秀頼が成人するまでの間である。秀頼が成人したら、天下の政治・政権を戻してくれとも秀吉は遺言している。今は秀頼が若いから、家康が仮に政治をしているが、本当の国の支配者は秀頼だと思っていた」と。
 この遺言については、番組では出典を紹介していませんでしたが、「フランシスコ・パシオ『1598年度日本年報』であることが、昨年11月25日付の朝日新聞新聞夕刊に掲載された北川氏の「豊臣秀頼の再評価」で記されています。
 番組では関ヶ原の戦いの後も、各大名が年始の挨拶に大坂城の秀頼のもとを訪れていたことも取り上げていましたが、北川氏の「豊臣秀頼の再評価」では、「徳川幕府の成立後も、毎年正月には勅使以下、親王、門跡、公家らが大坂城を訪れ、秀頼にあいさつを述べた」という笠谷和比古氏の「関ケ原合戦と近世の国制」の記述が取り上げられています。

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