関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 大阪探訪106夏の陣400年37 「歴史秘話ヒストリア 」における秀頼4 堀埋め立ての経緯をめぐって

<<   作成日時 : 2015/06/20 10:52   >>

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  写真は4月18日に行われた大坂城跡の発掘調査の現地説明会の様子を入口から撮ったものです。真ん中に掘った土が大きく積み上げられています。今回発見された堀がいかに大きなものかがうかがえます。出る時に撮ったものですが、堀跡を見ようと多くの人々が並んでいました。
「歴史秘話ヒストリア 戦国のプリンスいざ天下取りへ」でも、今回の発見について触れられていました。
 その番組では、秀頼の活躍として、大坂冬の陣の際、自陣を馬で見廻り激励し、少しでも戦功をあげた者にはほうびを与えたということを、「当代記」の記述をもとにして述べられていました。
 この点に関しては、福田千鶴氏の「豊臣秀頼」(吉川広文館)には、「陣の最中、秀頼は瓢箪の馬印を掲げて船場町や天王寺岡山辺を見廻った」とあり、「豊内記」の記述を引用した上で、「大坂方の総大将として陣中を鼓舞して廻る荒々しき若武者秀頼の姿があった」と記されています。
 冬の陣の講和条件として、番組では外側の堀を徳川方が、内側の堀を豊臣方が埋めるようになっていたと紹介されていました。しかし、家康は戦いの混乱に乗じて内側の堀まで埋めるように徳川方の兵に指示したので、徳川兵は工事を急ぐため城下町の家や家財道具も埋め立てに利用し、大坂の町の人々は戦いの後も苦しめられたと説明されていましたし、今回の堀からの出土品もそれを裏付けるものだという捉え方でした。
 堀の埋め立ての分担に関しては、以前にも拙ブログで紹介したように、渡邊大門氏の「大坂落城 戦国終焉の舞台」(角川選書)には、12月26日付細川忠利書状の記述から、「惣構の破壊は徳川方の担当、二の丸、三の丸の破壊は豊臣方の担当であったことがわかる」と指摘され、「家康の謀略という説は、後世の脚色であると言わざるをえない」と記されています。
 一方、この堀の埋め立てについて、福田千鶴氏の「豊臣秀頼」(吉川広文館)には、双方には認識差があったことが論じられています。山内家に伝来する覚書にある、講和条件の第2条に「大坂惣堀うめ申すべき事」と記されていますが、「この『惣堀』」について、秀頼側は大坂城の外郭堀『惣構え』と捉えていたが、徳川側はこれを文字通り『惣堀』=すべての堀と捉えた」と指摘されています。さらに1月15日に秀頼の使者が岡崎を訪ね、「和睦の誓詞にも『捴構の堀』を破却する由だったが、東国の者が堀を残らず埋め立てている」などと言ったのに対して、家康の返事は「奉行等が聞き誤って『捴堀』(すべての堀)と心得たようなので、すぐに昔のように普請を命じてもよい」と許可を得たという「坂日記」の内容が紹介されています。「正月18日には大坂城割普請はほとんど終了し、徳川方は伏見に引き上げ、大坂城は二の丸までことごとく破壊され」たとも記されています。
 番組では上述の見解の折衷案のような捉え方がされているという気がしますし、堀の埋め立てに関してはまだ研究の余地があるように感じました。
 

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