関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1415 指月伏見城の発掘調査現地説明会2 聚楽第跡や大坂城本丸跡の石垣と類似

<<   作成日時 : 2015/06/22 11:05   >>

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 写真は今回発見された指月伏見城の堀と石垣を一昨日に撮ったものです。写真の上の方に見えているのが犬走(いぬばしり)、裏込、石垣であり、下の方が堀です。
 今回の発掘調査はマンションの新築に伴うものであり、あたりは団地が立ち並んでいます。町名は泰長老町であり、僧侶の西笑承兌の屋敷がこのあたりにあったことから来ています。
 石垣について、当日配布された現地説明会資料(京都平安文化財)には、「石垣は一辺1メートルを越える花崗岩や堆積岩を主石材として組まれています。下段の1〜2段、高さ0・5〜1メートル程がほぼ残存していましたが、本来は3段以上に組み上げられていたと推測されます」。「石材の種類、大きさ、組み方、仕上がりの様相等は、一昨年調査された聚楽第跡の石垣と共通しており、また秀吉の大坂城本丸跡の石垣ともよく類似しています」、「石垣の積み方は穴太(あのう)積みに通じるものです」などと記されています。
 指月伏見城は最初は秀吉の隠居所として建てられた私的な屋敷でしたが、秀頼の誕生によって、公的な太閤の居城に改築されます。この点について、説明会資料には、「指月の地に、天下人となった豊臣秀吉が天正20年(1592)に隠居屋敷の建設を開始します。しかし、建設後間もなくこの隠居屋敷は壮大な城郭に造り替えられます」と記されています。
 福田千鶴氏の「淀殿」(ミネルヴァ書房)には、「文禄3年の秋に伏見城が竣工し、拾は同年11月21日に移徒している」と記されています。
 文禄3年の秋から年末にかけて佐竹領の検地が行われ、三成は惣奉行を務めましたが、従来は三成は現地に赴いて、京・伏見にいなかったと見られていました。しかし、中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所載)には、この時、三成は京・伏見におり、検地には家臣を行かせていると指摘されています。その典拠として10月の前半には伏見がいたことを示す記述がある「上杉家文書」「鹿児島県史料 旧記雑録後編」、12月12日付けの長束正家・増田長盛らとの連署状(「組屋文書」)が挙げられています。
 これが事実とすれば、三成は伏見城の竣工や秀頼の移徒の時に、伏見にいた可能性もあるのではないでしょうか。

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