関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1417 指月伏見城の発掘調査現地説明会3 出土した金箔瓦・大地震の時三成は?

<<   作成日時 : 2015/06/24 11:26   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 4 / トラックバック 0 / コメント 0

画像
写真は指月伏見城跡から出土した、さまざまな種類の金箔瓦を6月20日に撮ったものです。現地説明会が行われた会場で展示されていました。
 現地説明会資料には、今回発見された瓦類について次のように記されています。
 「石垣の周辺や堀埋土からは多数の金箔瓦を含んだ大量の瓦類が出土しています。金箔瓦には軒丸瓦、軒平瓦、飾瓦、鬼瓦をはじめとする道具瓦等があり、五七の桐紋や菊紋等、大坂城跡や聚楽第跡出土の瓦と同様の文様が見られ、これまで知られている木幡城の瓦よりやや古い様相を示します。また菊紋や五七の桐を含んだ金箔瓦の内容も天下人である信長の安土城、秀吉の大坂城や聚楽第跡から出土している金箔瓦類に通じるものであり、天下人の天守を中心とした城郭に使用されていた天下人を象徴する屋根瓦類であったと理解されます」と。
 文中に「木幡城」とあるのは木幡山伏見城のことであり、指月伏見城が大地震で倒壊したため、そこから北東の位置にある木幡山に新たな伏見城を築きました。
 以前の拙ブログ記事で、ここのあたりの団地の住民たちの中には、自分たちが秀吉の作った指月伏見城のあった場所に住んでいることを知らない人も多いかもしれないと記しましたが、今回の発見で、歴史的な場所に住んでいるということを知った人は少なくないのではないでしょうか。
 大地震が起こったのは文禄5年・慶長元年(1596)閏10月12日の深夜のことですが、前にも触れたように、三成はその頃、講和交渉のため堺に来ていた朝鮮・明の使節の接待に従っていたようだと、中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編「織豊期主要人物居所集成」【思文閣出版】所載)に記されています。もっとも、厳密にいえば、中野氏の「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」(吉川広文館)の巻末年表には、「閏7月 明国使節、堺に到着」「8月18日 朝鮮使節、堺に到着」と記され、朝鮮使節が堺に到着したのは大地震の後です。
 大地震の際、加藤清正が兵を引き連れ、いち早く伏見城に駆け付け、秀吉に喜ばれ罪を許されたという、い わゆる「地震加藤」の話は、史実としては疑わしいという西山昭仁氏の見解(「新発見 週刊 日本の歴史04  豊臣政権と朝鮮出兵の真相」)がありますが、三成が大地震の際伏見城の自分の屋敷にいたならすぐに駆けつけたのではないでしょうか。櫻井成廣氏作成の指月伏見城推定復元図によれば、三成の屋敷は伏見城のすぐそばにありましたから、少なくとも加藤清正よりは早く登城できたはずです。「地震加藤」の真偽は別として、大地震が起こった時の三成の居所をはっきりさせる必要があるように感じました。
  

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 4
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス ナイス

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1417 指月伏見城の発掘調査現地説明会3 出土した金箔瓦・大地震の時三成は? 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる