関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 大阪探訪107 夏の陣400年38「歴史秘話ヒストリア 」における秀頼5 夏の陣までの経緯・秀頼書状

<<   作成日時 : 2015/06/25 17:56   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

画像
写真は大阪城の本丸広場に建っている大坂城や大坂の陣の説明パネルのうち、豊臣期大坂城と徳川期大坂城の位置の違い、規模の違いなどを示した図を6月19日に撮ったものです。この日は夜に住吉高校の元同僚だった4名との10数年ぶりの懇親会が谷町4丁目であったので、午後、備前島があったあたり、大阪城、NHK大阪局(「花燃ゆ」の巡回展)、難波宮などを回りました。
 徳川幕府は、大坂の陣の後、豊臣氏の痕跡を消すべく、盛り土をし、その上に豊臣期大坂城の規模を上回る大坂城を新たに築き、威信を示しました。そのことが図によってもよくわかります。
 「歴史秘話ヒストリア 戦国のプリンスいざ天下取りへ」では、秀頼は内側の堀が徳川方に埋め立てられたのを見て勝負はまだ付いておらぬと言い、徳川兵が去った後、「堀を掘り返した」「柵を設置した」という「大坂御陣覚書」の記述が紹介され、兵糧も集め始め家康との最後の決戦に備えたと説明されていました。 
 内堀の埋め立てについて、異なる見解が示されていることは拙ブログ記事で前述しました。
 番組では、家康は豊臣方が体制を立て直す暇を与えず、「大坂城を明け渡せ」(『秀頼事記』)と要求したが、秀頼は引かず、「城を明け渡すのは臆病者のすることだ」(『秀頼事記』))と拒否し、豊臣家当主として最後まで戦うことを決意したと説明されていました。
 渡邊大門氏の「大坂落城 戦国終焉の舞台」(角川選書)には、この間の経緯について次のように記されています。
 「徳川方は豊臣方へ使者を派遣し、次の二つの要求を行った。
 @秀頼は大坂城を明け渡し、大和か伊勢かいずれかの国に知行替えをすること。
 A今のような状況で大坂城にいたいのであれば、抱え込んでいる浪人衆を召し放ち、元の家中の構成員のみ留まること。
:結局、@の条件もAの条件も拒否された」と。
 番組では浪人衆云々のことは出ていませんでした。また番組では家康との決戦に備えたと説明されていましたが、福田千鶴氏の「豊臣秀頼」(吉川広文館)には、大坂夏の陣の一か月前の4月12日付の尾張の徳川義利(義直)に宛てた秀頼書状が掲載されています。徳川義利と浅野幸長の娘との祝言に際し、使者と贈り物を送るという内容のもので、「秀頼は徳川家に対して厚礼の書札礼(しょさつれい)を用いて臨んだのだが、豊臣家の完全なる滅亡を決意していた家康に対しては、まさに焼け石に水だった」と記されています。
 このことから見れば、秀頼は家康との対決を回避しようと、敢えて低姿勢で臨んでいたことがわかります。むろん、その一方で、戦いの準備は続けられていたわけですから、和戦両様で取り組んでいたのが実際の姿だったことがわかります。渡邊氏の同書には、この時期、豊臣方に派閥抗争があったことが記されています。 

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
大阪探訪107 夏の陣400年38「歴史秘話ヒストリア 」における秀頼5 夏の陣までの経緯・秀頼書状 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる