関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1427 橋本章氏の講演会5 郷土の偉人として顕彰・三成襲撃事件の際の毛利輝元書状

<<   作成日時 : 2015/07/12 10:39   >>

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 写真は長浜市石田町の八幡神社を昨年の三成祭の日に撮ったものです。この奥の石田一族供養塔のところで毎年法要が行われています。雨の日は石田会館において行われますが。
 さて、橋本氏の講演会では、郷土の偉人としての三成の顕彰の動きとして、昭和16年に三成の生まれ故郷である石田で石田三成公事蹟顕彰会が結成され、その翌年、拙ブログ記事でも紹介したように、石田治部少輔出生地碑が建立されました。
 講演会のレジュメには、石田町の地図が掲載され、三成出生地碑、三成産湯の井戸などの関連史跡の写真もスクリーンの画面で紹介されていました。三成が秀吉に仕えたきっかけとされる、三献茶の逸話も取り上げられていましたが、その舞台は大原観音寺だと断定されていました。三成が寺で修行していたことを示す史料として、寛文4年(1792)の「淡海木間攫」の「石田村」の項の三成「幼少ノ時、寺院に属セリ」などという記述が示されていました。
 周知のように、三成が修行した寺はもう一つの説として古橋の三珠院があります。三成が関ヶ原の戦いで敗れて逃走した際、頼った寺です、
 石田三成襲撃事件に関して、慶長4年(1599)閏3月の毛利元康宛毛利輝元書状が史料として取り上げられていました。家康の介入によって三成が佐和山に隠居するという形で決着し、三成の嫡男の重家が家康に頭を下げることになったことに対して、輝元は気分が悪くなったというようなことが記され、橋本氏は輝元に天下人の野望があったと指摘されていました。
 この書状は光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)でも取り上げられていますが、同書は以前、拙ブログ記事でも紹介しました。一連の毛利元康宛毛利輝元書状などから、武断派七将による三成ら奉行衆に対する襲撃の際、三成も毛利輝元らと図って反撃を加えようとしていたと指摘されています。
 しかし、大坂城を家康派らに抑えられていたために、三成たちの計画は失敗に終わり、三成は奉行職を解かれることによって事態の収拾がはかられました。
 これも以前に記したように、三成の引退が決まった時、三成が挫けた様子であり、輝元も泣いたという別の輝元書状もあり、これも光成氏の同書で取り上げられています。
 三成や輝元らが家康の介入によって煮え湯を浴びせかけられたことが、翌年の反家康逃走決起、関ヶ原の戦いにつながったというのが光成氏の見解ですが、橋本氏の講演会でも同様の見解が示されていました。
 

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