関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1429 橋本章氏の講演会7 家康の問鉄砲は虚構・首謀者とされた三成

<<   作成日時 : 2015/07/14 17:40   >>

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 橋本章氏の講演会では、時間の関係上、関ヶ原の戦いについてはそれほど詳しくは触れられませんでしたが、家康が秀秋に鉄砲を撃ちかけての誘い(問【とい】)鉄砲は虚構の可能性が高いことが指摘されていました。根拠として、東軍から秀秋のいる松尾山までは、距離的に鉄砲の玉は届かないという点が挙げられていました。
 拙ブログ記事でも以前取り上げたように、問鉄砲の虚構性については、白峰旬氏の「関ヶ原合戦の真実」(宮帯出版社)の中で詳しく論じられています。
 今でも小説やドラマで家康が問鉄砲をして小早川秀秋に裏切らさせたという描き方をされることはよくあり、いかに通説が鵜呑みにされ、それを覆すのが難しいことであるかがよくわかります。
 講演会では、関ヶ原の戦いに参加した両軍の武将名、官位、年齢、動員兵力の一覧表が史料としてレジュメに掲載されています。動員兵力は陸軍参謀本部が作成したものであり、朝鮮の役の際、一万石に三人の軍役負担という数字からはじき出したもので、実際に動員された人数とは違う可能性があることを指摘されていました。
 年齢からすれば、家康が59歳と高く、それだけいくさの経験値が高いと述べられていました。東軍では彼より年齢の高い者はいず、西軍では島津義弘の66歳、安国寺恵瓊の62歳が家康より上ですが、両方共兵力は少なく、家康軍の数の多さと比較になりませんでした。家康と比べて、三成は41歳と若く、いくさの経験値も低いと説明されていました。
 ここで私見をさしはさめば、確かに経験値という点ではそう云えますが、天下統一されてからの10年は家康は反乱の鎮圧は別として戦いらしい戦いは経験していないのに対して、三成は朝鮮半島で碧蹄館の戦い、幸州山城の戦いなどを経験しており、そういう経験があったからこそ、挙兵ひいます。
 講演会では、官位から見ても、家康が従二位内大臣と飛び抜けて高く、西軍では宇喜多秀家と小早川秀秋が従三位中納言、三成に至っては従五位下でしかないということが指摘されていました。
 石高からしても、家康が255万石と破格であり、対する三成は19万4000石でしかありませんでした。
 その三成が戦乱を起こした首謀者として罪を背負わされ処刑されることによって、関ヶ原の戦いが終結したのは、多分に意図的であったことが指摘されていました。家康対三成という構図が生み出され、敵の大将に三成は祭り上げられたのだと。確かに今でも関ヶ原の戦いと云えば、東軍は家康、西軍は三成という構図であり、「大関ヶ原展」でもそういう捉え方がされています。

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
度々失礼します。
主に上杉、毛利、島津といった家康に敗れた諸将が、自分たちの存続のために三成を首謀者にし、罪を全て着せたのではないかと思います。ちょっと古いですが、「敗者から見た関ヶ原合戦」という本の冒頭でもそういった見解が示されていました。
家康、三成の比較でいえば年齢、経験値の他に生い立ちの違いも大きいように思います。家康にそんなに詳しくないのですが、幼い頃から人質生活が長く、大名家特有のドロドロもあったでしょうから、そういった中から育まれていったものがあったように思います。
ところで前回の北政所についてですが、私も中立だったのかなと思います。
そもそも、この合戦を止めようとはしなかったのでしょうか。
また前から疑問だったのですが、加藤清正や福島正則に対して説得したりできなかったのでしょうか。
自分の所でも思ったことを書いたりしましたが、なんとなく北政所は過大評価されすぎているのかなという気が最近しています。大阪では人気のある人なんでしょうね。
講演会には行けなかったので、こちらで色々内容を教えていただけて有難いです。では、とりとめもなく長々と失礼しました。またよろしくお願いします。
杏奈
2015/07/14 19:37
 杏奈さん、コメントありがとうございます。
 家康が幼い頃から苦労していたのはその通りだと思います。桶狭間の戦いで人質生活から解放されて、運が開けたのでしょう。本能寺の変の後も、着々と領土を広げましたし。
 北政所の関ヶ原の戦いでの立場がどうであったのかは、今後も議論が続くと思います。私は北政所が三成の挙兵に理解を示し応援していたと思っていますが、大津城開城交渉や戦後、三成の娘の辰姫を養女にして津軽藩に嫁がせたことなどから考えてのことですが。
北政所と加藤清正や福島正則の関係については、白川氏が秀吉の死後から関ヶ原の戦いの後数年は、清正や正則が豊国社に参拝しておらず、彼らが久しぶりに慶長8年に参詣に訪れた時には、北政所は同席していないことが明らかにされています。北政所が家康に味方した彼らを避けていたというわけです。北政所が彼らとの関係修復をはかったのは、慶長10年以降であり、天下は徳川のもとになり、豊臣家もその傘下に入るより生き延びる道はなくなったと判断したからだと指摘されています。
 秀吉死後の北政所の立場としては、大坂城から京都に移り、京都新城に拠点を構え、朝廷の応接や豊国社の造営などの任務に当たり、豊臣家を支えたことが、福田千鶴氏によって指摘されています。
 少なくとも北政所が関ヶ原の戦いの時は家康寄りだったとする見方は、徳川史観に基づくもので誤りだと思わざるをえません。
 またいろいろと忌憚ないご意見をいただければと思います。
 今後ともよろしくお願いします。

  
石田世一
2015/07/17 12:22

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