「大関ヶ原展」では、杉山家に伝わる石田三成肖像画と龍潭寺蔵の石田三成画像が並んで展示されており、その違いを間近に見ることができました。むろん、実際の三成の姿に近いのは、三成の次男の重成(杉山源吾と改名)を始祖とする杉山家の肖像画ですが。 橋本章氏の講演会では、龍潭寺の三成像について、頭巾をかぶって書物を持っている姿に三成の才知が示されているとともに不遜なイメージで描かれていると述べられていました。不遜なイメージというのは、家康の前で頭巾を取らなかったという逸話とも関連しており、その逸話も橋本氏は紹介されていましたが、三成の姿は恰幅もよく堂々として描かれているものの、個人的には不遜なイメージは受けず、毅然としていると云った方がいいように思いました。この肖像画は関ヶ原の戦い300年を記念して、三成を捕縛した田中吉政の子孫が鎮魂のため描かせたものですから、三成を悪いようには描いていないのでしょうか。 「大関ヶ原展」では、慶長5年7月28日付の「石田三成書下」が展示されていました。個人蔵のもので、国友鉄砲鍛冶に宛てたものです。「大関ヶ原展」の図録には、次のように解説されています。 「本状において三成は、鉄炮の製造は秀吉が天正3年(1575)に定めた法度に従い、国友鉄炮は新たに製造してはならない旨を告げている。近江の国友村は、当時鉄炮の一代生産拠点であり、三成は本状によって徳川方が国友に鉄炮の注文を出すことを牽制したのである」と。 また、その解説では、7月17日付で出された「内府ちかひの条々」にも触れられ、「この文書に見える国友鉄炮への統制も、これと連動したものと推察される。天下分け目の合戦直前の緊迫感が伝わる史料」とも記されています。 国友村は三成の領地であり、鉄炮について敵に渡らないようにしかるべき手を打っていたことがわかります。 中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤田讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所収)には、「7月29日佐和山を出て、伏見城攻撃に参加」と記されており、国友鉄砲鍛冶に宛てた書状を記したのは佐和山であったことがわかります。7月29日に伏見に着いたことは、同日付の島津忠恒宛島津義弘書状に「石治少事者、今日伏見へ上着之由候」という記述によってわかりますが、その点については今年1月に長浜で行われた桐野作人氏の講演「石田三成と関ヶ原合戦」で述べられていましたし、その史料がレジュメに掲載されていました(そのことは拙ブログ記事でも以前に触れました)。 なお、これも桐野氏の講演会で触れられ、拙ブログでも取り上げたことですが、秀吉の月命日に当たる7月18日には三成は豊国社に参拝しています(『時慶記』『舜旧記』)。 |
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