関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1432「大関ヶ原展」4 慶長5年7月晦日付真田昌幸宛三成書状・「内府」と呼び捨て

<<   作成日時 : 2015/07/17 11:21   >>

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 「大関ヶ原展」に、真田昌幸宛の三成書状が、2通展示されていました。三成が挙兵した後の、慶長5年7月晦日付と8月5日付のもので、真田真宝館が所蔵するものです。これらの書状については拙ブロク記事でも以前に取り上げたことがあります。
 「大関ヶ原展」の図録の中の7月晦日付の書状についての解説で、7月17日付の「内府ちかひの条々」及び同日付の真田昌幸宛の長束正家・増田長盛・前田玄以の連署書状に三成の名が記されていないことについて、次のように記されています。
 「あるいは三成は当初より単独で説得にあたる予定であったのかもしれない。長文の状況連絡に加えて、最後の箇条に子息の信之・信繁にも別途書状を出す旨を記していることから、三成は真田家に対して念を入れて対応していたことがうかがえる」と。
 もっとも、「内府ちかひの条々」は真田家だけでなく各大名に出したものですから、そのいずれにも三成の名前がないのは、この時点では三成は奉行職を解かれて公の立場にはなかったという事情があったのでしょうし、そもそも17日には三成は大坂城にいなかったことを証しているとも云えます。
 この三成書状の中で、挙兵したことを昌幸に知らせなかったことを詫びている箇所があります。笹本正治氏の「真田氏三代」(ミネルヴァ書房)には、この部分は次のように訳されています。
 「最初に今度の意向ですが、かねてからお知らせもしませんでしたので、ご立腹も無理ないことです。しかしながら、家康が大坂にいるうちは、諸将の心がどうしてもはかりしれませんでしたので、言い出すことを遠慮していました」と。
 このうち「家康」という箇所については原文では「内府」とあり、「内府公」という敬語になっていません。前にも拙ブログ記事で触れたように、桐野作人氏の講演会「石田三成と関ヶ原合戦」で、「内府ちかひの条々」では「内府公」という敬語が用いられているのに対して、同じような内容の家康弾劾状である石田三成・増田長盛連署條目(「歴代古案第五」)では、「内府」とあり、敬語が用いられていないことを根拠に、「内府ちかひの条々」の作成には三成は関わっていないと論じられていましたが、この三成書状でも同様であり、桐野氏の指摘はその通りだと改めて認識しました。
 8月2日にも真田昌幸に宛てて宇喜多秀家等連署書状が出されており、その書状も「大関ヶ原展」に展示されていましたが、宇喜多秀家・毛利輝元の二大老に、前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家が連署していますが、そこには家康のことを「内府」と記しており、敬語が使われていません。これも三成が書状の作成に直接関わっていたことを示しており、「内府ちかひの条々」との違いを感じます。


 

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