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zoom RSS 石田三成の実像1434「真田丸」は信繁で統一・三谷氏の昌幸愛「大関ヶ原展」6 8月5日付書状2

<<   作成日時 : 2015/07/19 10:52   >>

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 6月18日に掲載された「三谷幸喜のありふれた生活」の中で、「真田丸」の主人公について次のようなことが記されていました。
 「主人公は真田信繁。亨村という名で呼ぶ方が馴染み深いのだけど、今回は、歴史的に正しい『信繁』を使っている。真田幸村が幸村と名乗っていたことを証明する資料は、一つもないらしい」と。
 拙ブログ記事では幸村(信繁)などと書くことを心がけるようにはしていますが、なかなか実行できずとかく馴染み深い一般的な呼び方の幸村も使ってしまいがちです。
 さらにこの「三谷幸喜のありふれた生活」の中では、三谷氏は信繁の父の昌幸が大好きだということも明らかにされています。その理由として、まず「なにをしでかすかわからない魅力」が挙げられ、「目まぐるしく主君を変え、端から見ると、それはもう行き当たりばったりにしか思えない。一か八かの人生勝負に出るわりに、やたら勝負運が悪い。(中略)それでいて、戦は滅法強く、あの徳川家康と戦って二度も勝っているのだから、痛快だ」と記されています。
 「そしてなにより、僕が彼を愛する理由は、その『明るさ』にある」と記され、「彼の辿った人生から逆算して性格を推し量ると、どうしても『前向き』とか『へこたれない』といった陽性の言葉が並ぶ」とあります。
 「真田丸」では、信繁だけでなく昌幸にも注目したいと思います。大河ドラマで本格的に三成が登場するのは大分先の回になると思われますが、初回で少し登場する可能性はあると思います。
 さて、「大関ヶ原展」に展示されていた、真田宝物館所蔵の昌幸宛8月5日付の三成書状ですが、「大関ヶ原展」の図録の中で、この書状についての解説の後半に次のように記されています。
 「最後の箇条では石田三成自身が尾張国清須城に向かい、福島正則の帰属を促すよう行動すると述べている。この段階では豊臣恩顧の大名である故、福島正則は味方となる可能性があると判断していることがうかがえる。同時に家康も正則が翻意する可能性があると考えていたらしい。福島正則の帰趨は双方にとって序盤の大きな課題だったのだろう」と。
 三成が正則に期待をかけていたことに状況判断の甘さがあったということがよく云われますが、世間で云われる程の確執が二人の間にあったのかどうかということについて、改めて検証する必要があるように感じました。三成襲撃事件の際の七将の一人が福島正則ですから、正則が三成たち奉行衆に不満を持っていたのは史実でしょうし、三成はこの事件の責任を取らされる形で泣く泣く奉行職退任に追い込まれたわけですから、正則等に恨みを持っていたとしても不思議ではありません。しかし、福島正則の説得ができるという思いを三成が持っていたということは、その時は恨みを持っていたとしても今は薄れていたかもしれず、たとえそういう感情は底にあったとしてもそういう私的なことは抑えて、豊臣政権を守るために尽くそうという意識の方が大きかった証だとも云えますし、そういう豊臣政権を守るということを前面に持ち出せば、正則も賛同してくれるかもしれないという思いがあったからではないでしょうか。

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
「真田丸」のキャスト発表、豊臣勢がなかったのは残念でしたね。
三成が真田家にどう絡んでくるのか、楽しみでもあり、不安でもあります。
内野聖陽さんの家康にも期待しています。今回かっこいい家康になりそうですね。
正則は家康に利用され、黒田長政の調略に乗せられたのだと思います。
相手の調略勝ちですが、乗せられる方も乗せられる方だなと思います。
黒田長政の調略にかかった者たちって、ろくな末路を辿ってませんし、正則も後に後悔したかもしれません。
個人的に正則たちと最初から仲が悪かったとは思っていませんが、一度こじれたりすれ違いが生じると、もうどうしようもなくなることがあると思います。
そこを利用されたのでしょうが、三成からすれば悪いことをした覚えはないし、
ずっと共に戦ってきた仲間と決裂するなんて簡単には受け入れ難かったでしょう。が、襲撃までされているのにまだ望みを抱いていたのなら、甘いと言われても仕方ないと思います。でも私は怜悧と言われている三成のそういうところが、非常に好きです。

杏奈
2015/07/19 20:43
 杏奈さん、いつもコメントありがとうございます。
 正則が後に後悔したのはその通りだと思います。大坂の陣から改易に至る過程で、徳川に利用されて捨てられたということもよくわかったでしょうし、関ヶ原の戦いを起こした三成たちの気持ちもその時になって理解したのかもしれません(もっと早くわかったかもしれませんが)。
 三成は冷淡な官僚的な人物と思われがちですが、筋を通すということはあったにしても、人を信じる温かい心の持ち主でもあったのではないかと私も思います。真田信之への手紙でも家臣への手紙でもそれを感じます。三成には三成なりの人望があったからこそ、それをもとに反家康の対抗勢力を作り上げることができたと云えるでしょう。むろん、利害で加わった者や豊臣政権の公儀性を三成たちが標榜していたということで加わった者もいたでしょうが。
石田世一
2015/07/20 00:26

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