関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1435 三谷幸喜氏が描いた昌幸の絵 「大関ヶ原展」6 昌幸像の解説・真田家の分裂

<<   作成日時 : 2015/07/20 10:45   >>

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 6月18日に掲載された「三谷幸喜のありふれた生活」の中で、三谷氏が真田昌幸のことが大好きなあまり、「さんまのまんま」の番組に出演した時、昌幸の似顔絵を書いてさんまさんにプレゼントしたということが紹介されています。
 「残された肖像画のビジュアルも素晴らしく、そっくりに描いた僕の絵を見て『なんや、このくたばりぞこないのおっさんは』とさんまさんは絶句した」と、その時のことが記されています。
 その三谷氏が描いた昌幸の絵が、和田誠氏によって再現されてその文章に添えられていますが、「大関ヶ原展」で展示されていた真田昌幸像とよく似ており、文中の「残された肖像画」というのはあるいはこの肖像画のことではないかと思われます。
 「大関ヶ原展」の図録の、昌幸肖像画の解説には次のようなことが記されています。
 「刀を差し、右手に采配を持ち、左手を肘掛にのせ、胡座姿で座す。羽織の左袖には家紋である六連銭が据えられる。晩年の風貌で描かれるこの図像の肖像画は、ほかにも数本が伝来する」「肖像画の頭上には、昌幸の心境を表わすような『謀廻帷幄中 勝事決千里外』という『史記』の一節が掲げられる」
などと。
 また真田家が関ヶ原の戦いで分裂した起源として、「真田家には、豊臣裁定による徳川家康への帰属という整理、政治上の経緯による上杉景勝を頼る関係という分裂した二つの方向性が内包され」たことだったと記されています。その経緯について、争っていた北条と徳川の「協定により上野国内の所領は北条へと帰属が決められてしまった。自領を一方的に手放すことを求められた昌幸は、家康のもとを離れ、上杉景勝に接近する。この真田昌幸の動静をめぐる状況は、後に豊臣秀吉による裁定で整理され、昌幸は再度、徳川家康に帰属するよう命じられた」とも記されています。
 信之は家康家臣の本多忠勝の娘を妻とし、一方の信繁は大谷吉継の娘を妻とし、そういう姻戚関係も、関ヶ原の戦いで兄弟が分裂することにつながったと考えられます。秀吉の裁定が、結果的に両者の分裂を招いたのですから皮肉な事でした。オンライン三成会編「三成伝説」(オンライン三成会)や中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)にも記されているように、三成が信之に宛てた十数通の書状が残っており、私的なものが大半であることからみても、二人の関係の親しさがうかがえます。それだけに、三成は信之が東軍についたことは、信之と家康の浅からぬ関係は知りつつも、衝撃だったのではないかと思われます。


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