関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1437 「大関ヶ原展」8 行長や吉継関連のものはほとんどなし・恵瓊像・吉川広家の内応

<<   作成日時 : 2015/07/27 10:30   >>

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 「大関ヶ原展」が東軍に大きく軸足が置かれていたという点に関しては、三成関連のものは割とあったにもかかわらず、同じ西軍として活躍した大谷吉継や小西行長関連のものがほとんどなかったということにもよく表れていました(京都展の前期には吉継の短刀が展示されていたということですが、私が行ったのは後期ですからお目にかかりませんでした)。 周知のように、大谷吉継は関ヶ原で戦死しましたし、小西行長は戦後、石田三成・安国寺恵瓊と共に処刑されました。安国寺恵瓊については、龍潭寺蔵の板絵の安国寺恵瓊像が展示されていました。私はこの安国寺恵瓊像は今まで数回見たことがありますが、ところどころかすれるなどしており、安国寺恵瓊の表情がよく見えないのは残念です。「大関ヶ原展」の図録の解説には、次のようなことが記されています。
 「三鍬形を立てた兜を被り、左腰には太刀を佩き、右手には采配を持って床几に座った姿が描写されている。周囲の左下角には『常胤筆』の墨書と朱文方印が捺されている。また、裏面には『安国寺』の貼札がある。
 安国寺恵瓊は安芸国不動院の僧侶で、毛利家に仕え主に他国との交渉を司る役割を担ってきた。関ヶ原合戦では、石田三成と通じ、毛利家中の意見を石田方に誘導して、毛利輝元を総大将に担ぎ上げる」などと。
 関ヶ原の戦いが、三成の挙兵によって起こったのは事実ですが、水明下で恵瓊を通じて毛利家との交渉を続けていました。このことは、光成準司氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)でも指摘され、三成が挙兵してから毛利輝元が上坂して大坂城に入るまでの動きが迅速であり、前もって恵瓊を通じての三成との事前交渉があったからだと述べられています。また毛利氏が西軍の総大将になってからの西国での活発な軍事行動についても光成氏の同書で明らかにされていますが、肝心の関ヶ原の戦いでの毛利氏の動きは鈍いものでした。輝元自身は大阪城を動きませんでしたし、南宮山に陣取った毛利勢は家康に内応していた吉川広家が動きませんでしたし、毛利秀元も恵瓊も同様でした。
 京都の「大関ヶ原展」には展示されていませんでしたが、図録に慶長5年9月14日付けの吉川広家・福原広俊宛の井伊直政・本多忠勝連署血判起請文が掲載されており、図録の解説には、「広家は、以前から懇意の黒田長政を介して徳川家康に内応し」、「毛利氏の領国保全を条件に戦闘に参加しない密約を結んだ」と記されています。また同日付けの同じ吉川・福原宛ての黒田長政・福島正則連署血判起請文も京都展では展示されていませんでしたが、やはり図録の解説の中で、井伊直政・本多忠勝が吉川・福原にに送った「起請文に偽りがないと、念を押している」と記されています。
 8月8日付けの黒田長政宛の徳川家康書状は展示されていましたが、図録の解説の中で、「輝元は利用されただけで西軍の挙兵には加担していないとする広家の主張を家康が認め、長政に仲介を要請した」こと、「本文書は黒田長政自筆書状の紙背に写して伝達され」たことなどが記されています。

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