関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1438 毛利輝元墓所 「大関ヶ原展」9 関ヶ原の際の輝元は優柔不断・主導者は三成

<<   作成日時 : 2015/07/29 11:28   >>

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 写真は萩にある毛利輝元と夫人の天樹院の墓所を3月に撮ったものです。泊まった「三の丸北門屋敷」のすぐ北にあります。墓所には天樹院が輝元を供養するために建てた菩提寺がありましたが、明治に廃寺となりました。
 「大関ヶ原展」には、毛利輝元関係のものとしては生前に書かれた毛利輝元像、書状、連署状などが展示されていましたが、関ヶ原の戦いには参加しませんでしたから、むろんその関係のものはありませんでした。書状の中には、前にも取り上げたように、三成襲撃事件の際、三成一人が責任を取らされる形で事の収拾が図られた時、「気分が悪くおもしろくない」と述べている書状も展示されていました。
 南宮山に陣を置いた毛利秀元関連のものとしては、秀元像、五七桐紋旌旗(毛利秀元が初代の長府毛利家に伝来した軍旗)、一文字三星紋旌旗(秀元が朝鮮出兵時に用いた軍旗)、秀元所用と伝わる兜などが展示されていました。
 ところで、オンライン三成会の掲示板で、西軍を主導したのは誰かということが、ちょっとした議論になっています。私は三成が主導したものだと考えていますが、輝元が三成に挙兵を促し、輝元が西軍の総大将におさまったという見方、いやけしかけたのは毛利家の外交僧である安国寺恵瓊だとする見方なとが示されています。
 私が三成が主導したものだと考えている根拠の一つは、三成が挙兵してから書いた書状には、家康に対して敬語が使われていず「内府」と呼び捨てにしている点です。家康弾劾状である「内府ちかひの条々」には、家康のことを「内府公」と呼び、敬意を払っていますが、この書状に三成の署名はありません。
 桐野作人の講演会で、「内府ちかひの条々」と同じような内容を記した、上杉景勝宛の「石田三成・増田長盛連署条目」(『歴代古案』)には「内府」と呼び捨てにされていることが指摘されていました。その時から「内府」と「内府公」の言い方の違いが気になっていましたが、真田昌幸宛ての7月晦日付の三成書状、やはり昌幸宛の8月2日付宇喜多秀家等連署書状(三成も署名)、昌幸・信幸・信繁宛の8月5日付三成書状には、「内府」とあって敬語が使われていません。三成の反家康の立場が明確であり、輝元の優柔不断さとは比較になりません。輝元は西軍の総大将となって、西国で活発な軍事行動を始めたものの、家康に対しては消極的で結局は大坂城を動きませんでした。むろん、三成の挙兵に呼応した輝元の迅速な大坂城入りは、両者の間でそれまでに水面下の交渉が行われていた証拠でしょうが(光成準司氏の「関ヶ原前夜」)。
 それに、三成は上杉家及び直江兼続に対しては特別親密な関係にありましたから、上杉家を見捨てられないという思いもあって、挙兵に踏み切ったのではないでしょうか。 

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