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zoom RSS 京都探訪237 天得院の桔梗 夏の陣400年40 清韓の「国家安康」をめぐって シナリオ通り? 

<<   作成日時 : 2015/07/03 11:10   >>

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  写真は東福寺の塔頭である天得院の庭園に咲く桔梗の花を昨日、撮ったものです。上の写真は華頭窓と呼ばれる独特の形をした窓から撮ったものです。この写真では桔梗の開花の様子はよくわかりませんが、下の写真は縁側から撮ったので、比較的大きく写っています。桔梗の開花に合わせて特別公開されていましたが、ちょうど見ごろであり、次々と人々が訪れていました。
 天得院の桔梗を見に行ったのは二度目であり、前回の時と同様、家人と一緒に行ったのですが、この後歩いて京都駅まで出、京都劇場の7階のイタリア料理店で食事をした後、一人別れて東に歩き、法住寺、後白河法皇陵、三十三間堂などを見て回りました。
 最初の天得院拝観のことは、2010年7月18日付の拙ブログ記事で記しました。天得院の住持となった清韓についても大坂の陣のきっかけとなった人物として少し触れました。
 その点について、天得院の由緒書には、「慶長19年(1614)に東福寺第二二七世・文英清韓(ぶんえいせいかん)長老が住持となった。清韓は、豊臣秀吉、秀頼の五山の学僧として寵遇され、豊臣秀頼の依頼により、方広寺の鐘銘を撰文したが、銘文中の『国家安康、君臣豊楽』の文が徳川家を呪うものとして家康の怒りを招き、天得院は取り毀された。現在の堂宇は天明9年(1789)に再建されたもの」などと記されています。
 この銘文については、本多隆成氏の「定本 徳川家康」(吉川広文館)で次のように記されています。
 「清韓の弁明は、『国家安康』『君臣豊楽』のいずれも、『家康』と『豊臣』を隠し題として入れたもので、名乗りをかき分けることも昔からよくあることである、というものであった。しかしもしそうであれば、これは笠谷氏もいわれているように、家康の諱を織り込むことを事前に断わっておくか、幕府側に草案の披閲を受けておく必要があった。清韓や豊臣方の手抜かりがあり、家康の怒りを買う結果になったといえよう」と。
 清韓や豊臣側に落ち度があったという見方ですが、この点について、京都テレビの「京都・国宝浪漫」の「南禅寺塔頭 金地院」の中で、最初から最後まで金地院崇伝の謀略だったと安部龍太郎氏は解説していました。
 すなわち、「豊臣家をつぶそうという家康や側近の方針があり、それをどうやるかという時に、今豊臣家が作っている鐘の銘文に問題のある漢詩を入れたらどうかという進言を崇伝がしたところ、家康はそれがいいと応じたので、崇伝は清韓に漢詩を作らせた。崇伝は文章が出来上がった時に何食わぬ顔をしておいて、三ヶ月ほどしてちょっと問題じゃないかという騒ぎを起こした。これがシナリオだった」というような内容でした。この見解にどれだけの裏付けがあるのか知りたいところですが、小説家らしい発想だと感じました。
  
 

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