関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1439 毛利輝元墓所2「大関ヶ原展」10 「内府ちがひの条々」の草稿は佐和山で作成?

<<   作成日時 : 2015/07/30 11:32   >>

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 写真は萩の毛利輝元の墓所の参道を3月に撮ったものです。中央の奥に見えているのが、輝元の墓所です。ここはもともと輝元の隠居所であり、輝元の死後、夫人の天樹院が菩提寺にしました。墓所は萩城址の東に位置しています。
  京都の「大関ヶ原展」には、大阪歴史博物館蔵の家康弾劾状である「内府ちがい(ちかひ)の条々」が展示されていましたが、図説のその書状の解説に、次のような一節<があります。
 「この日には毛利輝元が打倒家康の総大将となるべく大坂西ノ丸に入っており、その後石田三成も蟄居していた佐和山城から上京して反家康の勢力に合流する」と。
 「この日」とは、慶長5年(1600)7月17日のことであり、輝元がその日に大坂西の丸に入ったことは、中野等氏の「毛利輝元の居所と行動(慶長5年9月14日以前)」(藤田讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所収)にも記されています。
 また「その後」とはいつか記されていませんが、はっきりと三成の大坂城入りがわかるのは、伏見城攻めに加わった後の7月30日です(中野等氏「石田三成の居所と行動」)。桐野作人氏も「内府ちがいの条々」が出された時に三成は大坂に行っておらず、翌18日の秀吉の月命日に豊国社に参拝していることを講演会で明らかにされていました。「内府ちがいの条々」は長束正家・増田長盛・前田玄以の三奉行の名で出されています。
 もっとも、「内府ちがひの条々」を出すにあたっては、三成の意向が強く働いていたのではないかと思っています。家康の罪状を次々と並び立てるのは、いかにも三成らしいやり方だといえます。想像するに、三成が佐和山で「内府ちがいの条々」を書き(恵瓊や吉継らとの話し合いの結果でしょうが) 、それが大坂城にもたらされたのではないでしょうか。三奉行たちがそれに添えて檄文を書くときに、彼らが家康のことを「内府」と呼び捨てにすることをはばかって、「内府公」にしたと考えられます。家康を弾劾する書状に「内府公」と敬語で記すのはおかしなことだと、桐野作人氏は講演会で述べておられましたが、確かに及び腰の印象を持ちます。三奉行と三成との家康に対する姿勢の違いが鮮明に出ているような気がします。
 大阪歴史博物館蔵の「内府ちがいの条々」には、十三箇条の条文は書かれていますが、「内府公」の文言が入った文章や、三奉行の名、宛所は記されていません。この書状についての図録の解説の最後に、「この史料は原文ではないが、ほぼ同時期の写しと見られる」と記されています。
 「大関ヶ原展」の図録には福岡市博物館蔵のものも掲載されていますが、これは三奉行による檄文や彼らの署名や宛所(この書状は立花宗茂宛のもの)が記され、完全な形になっています。

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