関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 京都探訪239 石田三成の実像1423 方広寺と蓮華王院が一体であったことを示す太閤塀と南大門

<<   作成日時 : 2015/07/07 10:41   >>

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 写真は三十三間堂(蓮華王院)にある太閤塀を7月2日に撮ったものです。前に碑と説明掲示板が建っています。
 妙法院の発行の本「国宝 三十三間堂」には、太閤塀について、次のようなことが記されています。すなわち、豊臣秀吉が三十三間堂を修理した時、境内地整備を行い、「境内の南と西とに練土塀を築き、大仏殿の真南に当る箇所には南大門を、西塀のうち七条通りには西大門を築いた。この築地塀が太閤塀と通称され、いま南大門から西端まで92メートル(高さは5・3メートル)残っており、重要文化財である。この塀は、文禄4年の大仏殿完成時にはなくて、その後、慶長5年までに蓮華王院を大仏殿と一つ区域に入れるために築かれたと思われる。塀の瓦には『天正16年8月大仏殿瓦云々』という刻銘を残したものがある」などと。
 豊臣時代は方広寺と蓮華王院が一体のものであったことが、太閤塀によってわかるわけです。当時はここのあたりは豊臣家の聖地ともいうべき存在だったと云えます。
 そういう特別な場所であったことから、蓮華王院の修理に関して秀吉から秀頼に受け継がれているわけです。同書にはこの点について、「今も扉や八双金具に天正20年の銘があり」、「千体仏は慶長5年から9年、二十八部衆は同10年に、すべて大仏師康正が秀頼の下命により修復した」と記されています。
 二十八部衆は、千体仏の前に距離を置いて並んでいますが、それぞれ個性的でその姿や表情の違いを見て楽しむことができます。
 文禄4年の大仏殿完成時の千僧供養に三成が列席していたかどうかという問題ですが、その直前に、三成は増田長盛と共に京都所司代に任じられています(中野等氏「石田三成の居所と行動」【藤田讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』[思文閣出版]】)から、そういう意味でも、豊臣家の大事な行事であったことからしても、千僧供養にやはり列席していた可能性が高いという気がしました。それを裏付けるような決定的な史料がほしいところですが。
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 写真は南大門を北側から撮ったものです。写真に向かって右側にあるのが三十三間堂であり、左側に法住寺、後白河法皇陵、養源院が並んでいます。豊臣時代は、方広寺大仏殿の南正面に位置するのが南大門でした。南大門について、同書には次のように記されています。
 「南大門は、いま移築されて(明治)東寺の南大門となったかつての蓮華王院西大門と全く同じ形式であり、切妻造の三間一戸八脚門、妻飾りは二重虹梁三斗蟇股大瓶束で、細部に豪華な桃山式の彫刻がある。もちろん重要文化財であり、旧西大門の梁には慶長5年の刻銘があった」と記されています。
 太閤塀も南大門も、豊臣時代の重要な遺構であり、北の方広寺から一番南のここに至る、その区域の広大さが改めてうかがえます。

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