関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1424 橋本章氏の講演会2 「名将言行録」「石田三成生捕覚書」の記述

<<   作成日時 : 2015/07/08 11:03   >>

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写真は「「大関ヶ原展」の一角にあった関ヶ原町コーナーに貼ってあったポスターを撮ったものです。この一角に家康の甲冑の複製が置かれており、それは写真OKでしたが、三成の甲冑はありませんでした。そのことが端的に徳川方の視点に立った展覧会であることを物語っています。ポスターには、甲冑姿の三成が写っていたので、そちらの方を撮りました。三成の兜は大河ドラマ「葵 徳川三代」以来すっかり定番になった天衝脇立乱髪兜です。
 さて、「大関ヶ原展」を記念して行われた橋本章氏の講演会「石田三成の世評と語られる関ヶ原の戦い」ですが、「大関ヶ原展」の図録の中に橋本氏の「石田三成の人物像をめぐる言説」が掲載されており、その文章を読むと講演会と重なる部分が多いので、その文章も参考にしてもらえればと思います。
 江戸時代の三成評として、「名将言行録」が取り上げられていました。すなわち、「勇智兼備の聞え、世以て賞美せり。諸大名の取次、天下の法政を司りし故、威権赫奕として肩を比ぶる人なし」と。もっとも、これは三成を必ずしも評価しているものではなく、三成に権限が集中していることを批判する意味合いが強かったと橋本氏は解説し、しかし三成は実際、独裁的な人物ではなく、合議制を大事にしていた人物だったという見解が示されていました。
 また古橋の高橋家に伝わる嘉永7年(1854)4月13日の「石田三成生捕覚書」の記述が史料として挙げられ、田中吉政の家臣の田中伝左衛門の子孫らが古橋村に来て、かつて三成を捕えたという話が伝わるが、それを示すようなものが地元に残っていないか探しに来たという内容が紹介され、田中吉政の子孫にとって「石田三成は、自分たちの先祖の栄光と引き換えに捕えられるぺき大罪人でなければならなかった」と指摘されています。
三成の捕縛地には諸説あり一定していませんが、田中家の言い伝えに古橋で捕えられたとあるのは、古橋が捕縛地という信憑性が高い証拠ではないでしょうか。講演会の中で、古橋では他村から養子を取らないという風習があり、それが今でも続いているということが述べられていましたが、他から来た養子が三成のことを密告したからだと云われています。
 古橋に残る三成に関する言い伝えについては、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)のコラム「古橋の『都市伝説』」に詳しく記されています。むろん、他家から養子を取らないということも含まれています。なお、橋下氏は民俗学者であり、伝承というものを研究対象にされています。それは講演会のはしばしで感じました。「三成伝説」も史料だけでなく伝承も取り上げられ、そこから三成の実像に迫っています。三成が関ヶ原からの逃走道、途中立ち寄った家に石田の姓と鳩八の紋を授けたことなども紹介されていましたが、これも「三成伝説」に掲載されています。
  
 

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コメント(2件)

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私は三成公が自害しなくて本当に良かったと思います。だって悪いことなどしてませんから!キリストのように処刑されてしまいますが、最後は負けるが勝ちという言葉もあります。本当にすごい一生だったと思います。
tokebi
2015/07/08 21:32
tokebi さん、コメントありがとうございます。
自害せずに最後まで諦めず、毅然としていた三成の立派さには、ただただ敬服するばかりです。三成が密度濃く生き、大きな業績を残したことをもっと評価してしかるべきですね。三成ファンはそのことをよくわかっているでしょうが、一般的には顕彰がまだ充分にされていないという印象を持ちます。

石田世一
2015/07/10 21:45

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