関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1442 坂本雅央氏講演「松永弾正と平群谷」1 嶋左近が代替わりしたという史料

<<   作成日時 : 2015/08/10 10:53   >>

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 写真は昨日、奈良県生駒郡平群町の中央公民館大ホールで行われた、坂本雅央氏の講演会「松永弾正と平群谷〜松永久秀と嶋氏一族〜」の開始前の様子を撮ったものです。 猛暑の中、JR、近鉄を乗り継いで(王寺駅経由)、会場まで2時間程かかりました。以前19年間住んでいた生駒郡安堵町からだと近いのですが、今ははるばる行くという感じです。
 さて、講演会は、平群谷と嶋氏、松永久秀の出自、久秀と嶋氏の関係、平群谷の城、二人の左近、久秀の終焉などについて、画像なども使いながら二時間にわたって、熱く語られました。私が一番関心を持っていたのは、拙ブログ記事でも以前触れたように、嶋左近という人物が代替わりして二人おり、筒井家に仕えた左近と、石田家に仕えた左近とは別人であり、親子の関係であるという坂本氏の見解であり、この講演会でも、このことについて、かなりの時間をかけて説明されていました。
 嶋左近が代替わりしたということは、「奈良県南葛城郡誌」の吐田(はんだ)高恒の項に出ており、その部分が講演会で触れられ、レジュメにも掲載されています。
 その部分の要約もレジュメに載っていますが、次のように記されています。
 「天正13年(1585)2月、豊臣秀長の入部の頃に筒井順慶に長く仕えた嶋左近は没し、跡を継いだ息子も左近を名乗り、三分の一に減じられた所領を引き継いだ。しかし、石高も少なかったため石田三成に仕えて重臣となり、銀太郎友勝(清興の弟か)が吐田の館を守った。そして、関ヶ原合戦で左近は戦死、友勝より出陣して帰らず、館も荒廃したという」と。
 この史料の信憑性については、吐田高恒の父は筒井順慶に殺され、本人も嶋左近に苦しめられたという記述もあるので、そういう複雑な思いを嶋左近に持っている本人が、嘘のことを書くはずがないと、講演会では説明されていました。
 また、もし後に三成の家臣になった嶋左近が筒井氏に仕えた人物と同一だとするなら、関ヶ原の戦いの際は61歳になり、嫡子の新吉が18歳から20歳ぐらいなので、長男の年齢としては疑問だと指摘されていました。さらに慶長2年(1597)には、左近の末娘の珠が生まれており、左近が同一人物だとするなら、57歳の時になり、これもおかしいという点も挙げられていました。
 筒井家に仕えたのは嶋左近友之であり、石田家に仕えたのは息子の嶋左近清興だと主張されていましたが、そう強く言えるだけの根拠に乏しく、謎の武将の人物像に迫る一説として提言しているとおっしゃっていました。

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