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zoom RSS 石田三成の実像1444 坂本雅央氏講演「松永弾正と平群谷」3 「三成に過ぎたるもの」・嶋左近の出自

<<   作成日時 : 2015/08/12 17:08   >>

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 写真は坂本雅央氏の講演「松永弾正と平群谷」が行われた平群町中央公民館を9日に撮ったものです。椿井城はこの反対側にあります(公民館は駅の西側、椿井城は駅の東側)。
 講演会では、「三成に過ぎたるものがものが二つあり 嶋の左近と佐和山の城(百間の橋)」という有名な落首についても言及がありました。こういう言い方はよくされており、ルーツは「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」であり、元亀年間のことだと指摘されていました。「三成に過ぎたる」ものの方の初出は、「古城御山往昔咄聞集書(こじょうおんやまおうじゃくのはなしききあつめがき)」であることが、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の中で記されています。すなわち、「石田ニハ過ぎたる物ハ二つある嶋の左近に百間の橋と落書された」と。
 「三成伝説」の「嶋左近」の章では、嶋左近の出自について、大和説・近江説・対馬説・尾張説という四つの説があり、それぞれの説についての検証が加えられています。その結果、「大和説が最も無理のない説であるが、若い頃に佐和山で活躍した左近が、長じて再び佐和山城主・三成の下に馳せ参じたという考えも捨てがたいように思える」と結論づけられています。
 講演会では、大和出自説が有力視されていると述べられ、その根拠として次のようなことが挙げられていました。
 「平群谷には中世以降、福貴寺庄などを領した国人領主・嶋氏がいた」こと、「『嶋左近清興』の署名のある書状が残って」いること、「天正5年4月に左近が春日大社に奉納した灯篭が現存し」ていること(前述したように、銘文に書かれている「嶋左近」の諱について「清興」とは読めないということも指摘されていました)、「西宮城跡近くの安養寺に『嶋佐近内儀』と刻まれた位牌がある」こと、「文禄検地の際、左近が石田三成らとともに平群郡岡崎町の検地奉行を務めた記録がある」こと、「嶋氏建立と伝える興福寺持寳院には左近の位牌があったとの伝承がある」こと、「平群町上庄の乾殿の娘が椿井村の嶋左近に嫁いだとの伝承がある」こと。
 このうち、文禄検地については、坂本氏の「平群谷の驍将 嶋左近」(平群史蹟を守る会)の中には、「関白豊臣秀次失脚後の文禄4年8月、増田長盛の大和郡山入封と同時に大和において検地が行われているが、その文禄検地帳の平群郡岡崎村(現奈良県安堵町)の検地奉行の項に『嶋左近』の名が見られ、同郡竜田村(同斑鳩町)の項には『石田治部少輔』の名が見える」などと記されています。
 中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤田讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所収)には、三成が文禄検地に携わっていたことを示すものとして、9月8日付の安宅秀安書状が挙げられています。

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