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zoom RSS 石田三成の実像1445 坂本雅央氏の講演「松永弾正と平群谷」4 庄屋乱入事件を起こしたのは嶋左近?

<<   作成日時 : 2015/08/14 15:41   >>

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写真は春日大社の国宝御本殿特別公開に行った6月30日に、南門の入口にある灯篭を撮ったものです。嶋左近が天正5年(1577)に 奉納した灯篭は一番前の向かって右側から2つ目です。前述したように、その灯篭の銘文には従来「嶋左近蒸清興」と記されているとされてきましたが、8月9日に行われた坂本雅央氏の講演会「松永弾正と平群谷」では、「清興」とは読めず、再検討することの必要性が説かれていました。
 筒井家に仕えたのが親の嶋左近友之であり、三成に仕えたのが子の嶋左近清興だという坂本氏の説に従えば、筒井家時代に奉納した嶋左近の灯篭に「清興」とあるのはおかしいということになります。
 なお、この灯篭の写真はオンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「嶋左近」の章でも掲載されています。
 永禄10年(1567)に起こった庄屋乱入事件についても、講演会で言及されていました。庄屋乱入事件とは、「庄屋」なる者が、「平郡(群)嶋城」に乱入し、継母や15歳の子など9名を殺害したという事件であり、「多聞院日記」に記述があります。「庄屋」の父の「豊前守清国」 は城を脱出しています。「平群町史」を記した永島福太郎氏が、「庄屋」を嶋左近と推定しているものの、今のところ確たる証拠はないと講演会で述べられていました。
 もっとも、「嶋豊前守清国」について、永禄3年3月3日付の湯屋坊買得状が残っており、講演会の史料として取り上げられていました。このことから、嶋豊前守は「当時『平群嶋城』の城主であり、嶋氏の当主であった可能性が高い」と指摘されていました。
 平群谷の嶋氏ら国人衆は筒井氏の与力衆でした(家臣ではなく)が、松永久秀の侵入以来、松永の支配を受けていた状況でしたから、庄屋乱入事件のような内紛が起こりうる可能性は十分考えられるものの、坂本氏は「庄屋が左近本人なら、一時的に久秀の靡下にいた上に天文11年(1542)生まれということになり、筒井家における重臣として世に伝えられる活躍自体が作り話ということになる」と、庄屋=左近説について否定的な見解が示されています。
 「庄屋」が天文11年生まれというのは、「多聞院日記」の永禄9年5月26日の条に、庄屋について「當年二五才」という記述に基づいています。
 確かに嶋左近が後に筒井家の重臣として活躍したのであれば、左近は久秀の侵入と共に平群谷から逃げ出し、筒井家と行動を共にしたと考えられるのが自然かもしれません。このあたり、左近の代替わり説と共に、今後の研究を俟ちたいと思います。
 ちなみに、三成は永禄3年生まれですから、庄屋乱入事件が起こった時には、8才でした。むろん、三成は近江の石田村で生まれていますが、すでにこの頃、寺で修行していたかは定かではありません。

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