関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 大阪探訪112 刻印広場 夏の陣45 「歴史秘話」の秀頼8 伝説へ 「豊臣大坂城」5 家康の思惑

<<   作成日時 : 2015/08/19 11:40   >>

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 写真は大阪城の山里丸にある刻印広場を6月20日に撮ったものです。刻印が刻まれた石垣の石が多数置かれています。刻印は大名の家紋や石の生産地名などが刻まれています。
 大坂夏の陣で秀頼や淀殿が亡くなったのは山里丸であり、この刻印広場の近くに、淀殿・秀頼自刃の地碑が建っています。もっとも、豊臣時代の大坂城の天守の位置は、今の大阪城とは違っていますから、山里丸の位置も微妙に異なっています。
 「歴史秘話ヒストリア 戦国のプリンスいざ天下取りへ」では、秀頼は母の淀殿と城内で自害(享年23)し、天下を治めるプリンスとして期待され、庶民の人気を集めた者の無念の最期だったという語りが入っていました。
 また同番組では、大坂の陣の後、豊臣秀頼が愛した大坂城は地中深く埋められたこと、江戸幕府はその上に新たな大坂城を築き、豊臣家の記憶を民衆から消そうとしたこと、大坂の陣はその後多くの軍記物に取り上げられるものの、それらの多くは幕府の視点で描かれていたこと、「秀頼は若く善悪がわからない、天下泰平のため家康は大坂を攻めた」(『大坂物語』)という記述や大坂夏の陣図屏風に秀頼の姿がないのも、秀頼の存在を消したいという幕府の思惑が働いていたのかもしれないこと、当時の関西では「花のよふなる秀頼さまを、鬼のよふなる真田が連れて退きも退いたよ加護嶋(鹿児島)へ」という歌がはやったこと、鹿児島市に「伝・豊臣秀頼の墓」があること、岸和田のだんじり祭りの山車の彫刻に勇壮な豊臣秀頼や真田幸村、後藤又兵衛などが描かれていること(江戸時代は禁止されていました)、豊臣家が好きだというだんじり祭りの人々の話などが取り上げられていました。
 家康が大坂の陣を起こした理由について、自分の死後のことを心配していたからだということが、笠谷和比古氏・黒田慶一氏の「豊臣大坂城」(新潮選書)の中で、論じられています。秀忠は二代将軍になったものの、官位は内大臣であるのに対して、秀頼はそれより上の右大臣であること、家康が死んだ後、外様大名たちが関ヶ原の戦いに間に合わなかったという負のイメージが付きまとう秀忠に従うかは疑問であるという点などが挙げられていました。大坂の陣で各地の大名に出陣命令を出したのは家康でしたし、もし大坂の陣が、家康の死後に起こっていたなら、すべての大名が徳川に従っていたかは怪しい所であり、事態はもっと流動的になっていたかもしれません。 笠谷氏は関ヶ原の戦いの後は二重公儀体制であったことをかねて主張しておられ、同書でもそれが展開されており、いろんな論点が示されていますが、二重公儀体制とまで云えるかどうかは措くとしても、大坂の陣まで秀頼の権威は依然として失っていなかったという思いを持ちました。
 

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