関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 大阪探訪109 夏の陣400年42 片桐且元屋敷跡 「歴史秘話ヒストリア 」の秀頼7 和睦の陰謀?

<<   作成日時 : 2015/08/02 10:46   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 
画像
 写真は大阪城天守閣の東側の梅林に建つ市正曲輪(いちのかみくるわ) の説明掲示板を6月19日に撮ったものです。その掲示板には、「現在の大阪城梅林の地は、豊臣秀頼の後見人として重要な地位を占めた片桐東市正且元の屋敷があったと伝えることから『市正曲輪』とよばれる」などと記されています。
 方広寺鐘銘問題の対応をめぐって且元が大坂城を追い出され、家康が全国の大名に出陣を命じたことから、大坂の陣が始まりました。
 さて、「歴史秘話ヒストリア 戦国のプリンスいざ天下取りへ」では、5月7日の大坂夏の陣最後の決戦の際、家康から和睦が提案され、それは「秀頼は縁者なので捨て置きがたい。和睦すれば大和国に領地をやる」(『難波戦記』)というものだったが、秀頼は和睦を潔しとせず自ら死を選んだと説明されていました。「生きながらえて豊臣の衰退を見るより共に戦い、死んだ者たちと同じ道をゆく」」(『秀頼事記』)という記述が引用されていました。
 福田千鶴氏の「豊臣秀頼」(吉川弘文館)には、「難波戦記」に記載されているこの時の家康からの和睦について、具体的なことが記されています。
 すなわち、「岡山表に配置された津川左近親行が秀頼より預かった茜の吹貫五十本と金の切裁を提げた金瓢箪の馬印を立てていたので、徳川勢は秀頼が出馬していると思っていた。秀頼は天王寺表へ出馬する予定で、軍勢も『大将軍秀頼の御前』で晴の討死をしようと勇んでいた。大坂勢がひるむ様子のないことを察した家康は、秀頼側に和睦の使者を派遣し」、上述のような「提案をした。昨日の敗戦で弱気になった近臣たちは、和睦をうけ入れ、秀頼の出馬を中止する評定をしていたところ、速水が進み出て、『このような成り行きで和睦できるはずはない。すでに天王寺表の寄手は合戦をしかけており、よくよく思案を』と言上したため、評議が決せず、秀頼は出馬できないでいた。一方、相談のため城外に出張していた大野治長や速水が城内で戻ったことで、味方は士気を失い、総崩れになった」と。
 文中の「速水」は秀頼の馬廻組の頭七人のうちの一人である「速水守久」のことです。
 また福田氏の同書では、「北川遺書記」の記述も紹介されています。
 すなわち、「秀頼も『今日の御一戦』と覚悟していたところ、関東よりの『御武略』により本丸に籠ることになった」と。
 こういう徳川方の謀略があったとするのは、徳川方に翻弄される豊臣方の姿を表わそうと強調した虚構かもしれませんが、このあたりの真偽を確定するのは今後の課題だと思われます。
 

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
大阪探訪109 夏の陣400年42 片桐且元屋敷跡 「歴史秘話ヒストリア 」の秀頼7 和睦の陰謀? 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる