関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1448 輝元に殉死した長井元房の墓 「大関ヶ原展」 輝元・秀家連署状

<<   作成日時 : 2015/08/20 16:58   >>

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 写真は萩の毛利輝元の墓所にある家臣の長井元房の墓を3月の萩旅行の際に撮ったものです。輝元が寛永2年4月27日に亡くなった時、殉死したので、そばに墓が建てられています。写真には「長井元房と忠義の猫〜猫町伝説〜」と題する説明掲示板も写っています。大体、次のようなことが書かれています。
 元房が若い頃萩を出奔して他国を放浪していたとき、輝元は銀子を与えて庇護し、元房が戻ってくると以前と同様家臣として遇したこと、そのため元房は輝元に恩義を感じ殉死したこと、元房のかわいがっていた猫が、元房の墓前を離れず、49日の法要の日、舌を噛んで死んだこと、萩博物館の西側の筋に元房の屋敷があったことから、この筋に猫町という名前がついたことなど。
 毛利輝元は、三成が挙兵した時、西軍の総大将におさまり、宇喜多秀家と共に大老の名で、各大名に書状を出しますが、大関ヶ原展では、このうち、8月1日付の8月1日付の島津忠恒宛の毛利輝元・宇喜多秀家連署状が展示されていました。図録の解説には、「島津家では忠恒の父義弘が上方に出陣したが、兵士不足のため十分な軍事活動ができずに苦慮していた。この日、西軍は伏見城を陥落させたが、少ないながらも島津家は多くの死傷者を出しつつ奮戦した。輝元・秀家のな両名は忠恒自身に国中の軍勢を残らず召し連れて上洛するよう命じ、鉄砲の弾薬や兵糧米は公儀より支給するので、あるだけの人数を連れてくるよう要請した。西軍の輝元・秀家は自陣営を公儀と認識していたことがわかる」などと記されています。
 前にも取り上げたように、白峰氏は石田・毛利連合政権が成立していた論拠の一つに、自分たちのことを「公儀」と称していたことが挙げておられており、この書状や三成書状が取り上げられています(「新『関ヶ原合戦』論)。また大西泰正氏は秀家が西軍に加わった理由の一つに、「公戦の形態をとっていた」からだということを挙げておられます(「豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家」)。
 もっとも、輝元は大坂城西の丸に居座ったまま、関ヶ原には出向きませんでした。輝元は西国では活発な軍事行動に出ましたが、家康に対しては及び腰だったことがうかがえます。この輝元の姿勢については、桐野作人氏は、「家康を葬り去るというよりも、三成らを利用して家康の専制的地位を低下させ、自らが優位に立った『輝元⇔家康』体制を築ければよいというのが大坂城入りの目的だったのかもしれない」(「謎解き 関ケ原合戦」)と指摘しておられます。そうだったとしても、肝心の西軍が関ヶ原で負けてしまったのですから、輝元の思惑ははずれ、毛利は大幅減封になってしまい、元も子もなくなってしまったわけです。

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