関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1449 石畑匡基氏「増田長盛と豊臣の『公儀』」1 秀吉の死直後、家康との距離が縮まる

<<   作成日時 : 2015/08/23 15:28   >>

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 一昨日再オープンした「丸善 京都本店」で購入した谷口央氏編の「関ヶ原の深層」(高志書院)を今、読んでいますが、新たな興味深い見解がいろいろ示されています。
 その中で、石畑匡基氏の「増田長盛と豊臣の『公儀』ー秀吉死後の権力闘争ー」では、秀吉死後の「公儀」をめぐる権力闘争について、三成と同じ「五奉行」の一人である増田長盛にスポットを当て、関ヶ原の戦いに至るまでの彼の動向が検討されています。
 石畑氏の同書では、秀吉死後、家康と長盛ら「五人之奉行」との「半不和」が表面することが記されていますが、その根拠は9月2日付内藤隆春書状です。「この『不和』状態は、9月3日に『五大老』と『五奉行』がともに起請文を作成し、秀頼政権を支える『十人之衆』が確定されたことにより一旦沈静化する」という矢部健太郎氏の見解が示されています。
  この起請文のことは、中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』所収)の中で、「9月3日の五大老・五奉行連署起請文に三成も署名している」と記されています。
 この後、三成たちは家康ら大老に命じられて、朝鮮半島からの撤兵の差配をするべく、博多に向かいます。
 中野氏の同書には、「11月2日には撤兵を告げる使者として朝鮮にわたる徳永寿昌・宮本豊盛の両名を名島に迎えている。朝鮮から戻ってくる将兵の世話に当たる三成の筑前駐在は12月10日頃まで続き」などと記されています。
 この間、家康と長盛の距離が縮まったということが、石畑氏の同書で指摘されています。山科言経は「徳川家康と対面し、夕方には長盛を訪問する家康に同道した。長盛邸では多くの振舞があり、20人ぐらいが相伴したという」と記され、その典拠は、「言経卿記」の11月25日条です。
 もっとも、その後に起こった、家康が秀吉の遺命に背いて婚姻の密約を結んだ件で、「慶長4年1月19日、家康以外の『五大老』と『五奉行』が、家康に対して詰問の使者を派遣し」、その結果「2月12日に家康と他の五大老および『五奉行』とが起請文を交わしている」と石畑氏の同書には記され、この時点では、長盛は「あくまで合議体制の維持と、家康の独走を許さないという立場であったと推測されよう」と結論付けられています。
 この前後の三成の動きについては、中野氏の同書には、1月「19日には前田利家を擁し、他の奉行衆とともに、家康が秀吉の遺命に背いたことを責める(『言経』)」と記されています。
  
 

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