関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1450 石畑氏「増田長盛と豊臣の『公儀』」3 前田利長による家康暗殺事件における長盛

<<   作成日時 : 2015/08/27 22:30   >>

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 25日から2泊3日で天橋立まで家族旅行に行っていたので、昨日のブログの更新ができませんでした。天橋立は去年行く予定でしたが、台風の影響で、当日、特急が運休したため、行けませんでした。
 今回は仕切り直しという感じでしたが、最初は今回もまたもや台風の接近で、行くのが危ぶまれました。25日は風が強かったものの、特急は時間通り動いて、宮津のホテルに着きましたが、その後は雨が降り出しました。しかし、昨日は晴天で、1日かけて、天橋立の松林を歩きケーブルに乗って山の上に上がり、傘松公園からの眺望も楽しめましたし、ふもとの店で昼食を撮った後、帰りは遊覧船に乗り、デッキからの眺めも堪能しました。
 今日は帰りの特急まで3時間ほど時間があったので、宮津市内をぶらつき、宮津城復元城壁、カトリック宮津教会、細川ガラシャ像、大頂寺(宮津城主の京極高知が建立し、その子の高広が現在の地に移しました。将軍綱吉の生母の桂昌院の御霊屋があります)、一式稲荷などを回ってきました。
 今回の旅行で、いろいろと写真も撮りましたが、どういうことが原因しているのか、写真をパソコンに取り込めない状況なので、今回の旅行の詳細については、写真添付して改めて取り上げたいと思います。

 さて、 石畑匡基氏の「増田長盛と豊臣の『公儀』」(谷口央氏編『関ケ原合戦の深層』所収)には、慶長4年9月に起こったとされる、前田利長による家康暗殺事件の際の長盛の動向についても考察されています。
 暗殺があったという点と、長盛が家康にこの計画を告げた点が、カンハンの「看羊録」と家康の侍医である板坂ト斎の覚書である「慶長年中記」の記述で一致していることが切畑氏の同書で指摘されています。
 「看羊録」には、清正と反目していた三成が利家が家康暗殺を計画していると家康に告げ、家康が長盛にこのことを尋ねると、長盛もこの計画を聞いていると告げたと記されています。こういう三成の行動から三成が家康に媚びを売っていると「看羊録」には書かれていますが、媚びを売っているという捉え方が正しいのかは疑問ですし、三成の密告自体、本当にあったのかどうかもはっきりしません。
 ただ、この時、三成が家康に命じられて、越前に出兵したという「看羊録」の記述が事実であることを示す日本側の史料があり、切畑氏の同書では、慶長4年9月21日付島津義弘書状が取り上げられています。
 その書状では、「前田利長に上洛しないよう家康は命じ」、「万一、強引に上洛する場合は越前表で食い止めるため、大谷吉治と石田三成の内衆とが越前に配置され」、「加藤清正についても上洛しないようにと家康は命じ、それでもね上がってくる場合は淡路表で食い止めるため、菅達長と有馬則頼が派遣され」たことなどが記されています。こういうことから、切畑氏の同書では、「清正が『七将襲撃事件』の裁定に不満を持ち、利長らと反家康の『刺血同盟』を結んで」おり、「清正も『暗殺計画』に関与していたためと想定される」と記されています。
 

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