関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1451 石畑氏「増田長盛と豊臣の『公儀』」4 利長による家康暗殺事件における長盛2

<<   作成日時 : 2015/08/28 16:14   >>

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  昨日の拙ブログ記事で述べたように、石畑匡基氏の「増田長盛と豊臣の『公儀』」(谷口央氏編『関ケ原合戦の深層』所収)には、慶長4年9月に起こったとされる、前田利長による家康暗殺事件の際の長盛の動向についても考察されていますが、暗殺計画を家康に告げたのは三成という記述がカンハンの「看羊録」にあるとしても、「三成を『徳川党』と評価するには根拠が薄かろう」と石畑氏の同書に記され、「長盛についても計画の密告という点だけで『徳川党』という固定した集団に属すると考える点には再検討を要する」と指摘されています。
 前田利長による家康暗殺事件の際は、家康は前田派である清正を警戒して兵を派遣するなどしているという島津側の史料があり、清正=家康という通説の構図では捉えられない面があったことがうかがえます。
 この点について、中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)には、「秀吉死後の政局に関して、家康と三成の対立という二極した見方ではなく、徳川派・前田派・毛利および三成ら奉行派という見解が水野伍貴(みずのともこ)氏らによって提唱されている」と記されています。
 中井氏の同書には、「徳川派…福島正則、伊達政宗、黒田長政、池田輝政、(大谷吉継)」「前田派…長岡(細川)忠興、加藤清正、浅野幸長・長吉、(宇喜多秀家)」「三成・毛利派…佐竹義宣、長束正家、(増田長盛、前田玄以)」と記され、「( )付きで書いているのは、派閥の一員というより、その色合いが強いくらいの意味合い」だと説明されています。
 家康暗殺計画も、この三派の複雑な動きの中で捉え直す必要があると思います。
 カンハンの「看羊録」の中で、家康暗殺事件の際、佐和山に引退していた三成が家康の意を受けて出兵したという記述があり、それを裏付ける、日本側の史料として前田家、島津家、細川家の文書にも同様の記述があることを故市野澤さんから教えてもらったことを、7月23日付の追悼記事の中で改めて記しました。切畑氏の同書では、昨日付の記事でも触れたように、このうち島津家側の史料が使われていました。
 家康暗殺計画の後、家康は伏見城から大坂城西の丸に移りますが、切畑氏の同書では、慶長4年9月21日付島津義弘書状の中に、家康が「天下之御仕置」を担うようになったという記述があることに注目され、「『天下之御仕置』とは、『公儀』運営を采配を指すものとしてみてよかろう」と指摘されています。
 この際の長盛の対応については、島津領内で発生していた庄内の乱に対する家康と長盛の対応を検討することによって、「長盛は家康と対立することなく」、「『公儀』の構成者としてその命令に従って」おり、「これは、家康は『公儀』の主宰者と認めているからこその行動と判断されよう」と記されています。もっとも、「長盛は従順に家康の命に従うだけではなかった」ということが、慶長5年の会津攻めの延期要請をもとに論じられています。

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