関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1452 石畑氏「増田長盛と豊臣の『公儀』」5 家康の会津攻めを延期するよう要請

<<   作成日時 : 2015/08/29 10:38   >>

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 家康の会津攻めによって東に動いたため、三成がその隙を狙って挙兵し、それが天下を二分する戦いになり、関ヶ原の戦いで決着したわけですが、だからといって、三成の挙兵を見越して家康が会津攻めに向かったという捉え方は、家康に都合のよい見方です。家康は三成が立つとは予期せず(家康暗殺事件の際も、三成は家康の意向に従っていますし)、全国の大名を動員して上杉氏を屈服させようと思ったのではないでしょうか。中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」には、家康の手法は敵対勢力を各個撃破してゆくというやり方であり、前田家の次に上杉家が標的にされたことが指摘されています。
 さて、石畑匡基氏の「増田長盛と豊臣の『公儀』」(谷口央氏編『関ケ原合戦の深層』所収)では、増田長盛が家康の会津攻めを延期するよう要請したことについて論じられています。
 その典拠は慶長5年4月21日付毛利輝元書状であり、「長盛・吉継を含めた面々が一方的に家康の命令を受けて実行しているだけでなく、自らの判断(会津征討の延期)を家康に要請できることがわかる」こと、「長盛らは家康主導による『公儀』運営を支持してはいるものの、依然合議体制の維持を企図していたものと想定される」ことなどが指摘されています。
 長盛や大谷吉継が上杉景勝の上洛を促すために、仲裁に乗り出し、彼らの使者も会津へ派遣したことを示す4月8日付や4月18日付の島津義弘書状も取り上げられていますが、18日付の書状では、毛利輝元の使者も会津に派遣していたこともその書状には記されています。むろん、家康の使者である伊奈昭綱も派遣されていますが。
 「大関ヶ原展」には、4月14日付のいわゆる「直江状」が展示されていました。図説の解説に、次のように記されています。
 「会津に下向中の上杉景勝に謀叛の嫌疑がかけられた。真偽を糺すため、家康は西笑承兌を通じて、上洛と起請文の提出を命じた。『景勝公御年譜』には4月1日付けの九ヶ条に及ぶ西笑承兌書状が書き写されている。この書状に対して、景勝家臣の直江兼続が書状で反論したという。その内容が挑発的であったことから、家康は激怒し、会津出陣につながったとされる。書状は原本が伝わらないものの写本が多く伝わり、直江状と呼ばれている」と。
 その解説には「偽作説」があることにも触れられています。
 本多隆成氏の「定本 徳川家康」(吉川弘文館)には、直江状に対して、「五月末になって、家康は上杉氏征伐に踏み切ることになった」、「三奉行たちはこれを諌止しようとしたが、家康の決意は変わらず」などと記されています。
 この点、切畑氏の同書にも、長盛らの「会津征討の延期要請は受け入れられることはなく」などと記されています。
 

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