関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1440 笠谷和比古氏・黒田慶一氏「豊臣大坂城」1 細川ガラシャ自害に関しての記述

<<   作成日時 : 2015/08/04 12:11   >>

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  写真は大坂の細川屋敷跡に建つ大阪カテドラル聖マリア大聖堂の西側にある「魂をかけた決断 細川ガラシャ」の説明掲示板を昨年6月に撮ったものです。ガラシャが自害した時の状況、大聖堂の北に位置する「越中井」のそばに碑が建つ辞世の歌の紹介などがされています。
 人質として大坂城に入城することを拒んだ細川ガラシャが自害したのは。「内府ちがいの条々」が出された慶長5年(1600)7月17日の夜のことです。
 前にも述べたように、「内府ちがいの条々」の条目の草稿は三成が佐和山で書いたのではないかと私は推定していますが、秀頼のそばに仕えていた三成の兄の正澄がなんらかの役割を果たしていた可能性もあるとも思っています。三成が家康との対立を避けていたのは、正澄や嫡男の重家の存在が大きく、家の存続を考えていたという面も大きかったからではないでしょうか。しかし、家康が勝手に会津攻めを始めた時、このままでは豊臣家はむろんのこと、将来、石田家の存立も危ないように感じたからだという気がします。
 「内府ちがいの条々」が出された時には、三成は大坂城にいなかったと思われ(桐野作人氏の見解)、そうだとすれば、その夜に起こった細川ガラシャの自害の際に、三成が兵を派遣したことも怪しくなってきます。むろん、三成がいなくても、石田家の兵は大坂城にいたはずであり、彼らが細川屋敷に押しかけた可能性はあります。正澄がこの時、大坂にいたなら、手勢を派遣したことも考えられないことではありません。正澄は愛知(えち)川に赴き関所を設け、会津攻めに向かう西国の軍勢を止めたという話がありますが、それがいつの時点であったのかも問題になります。この7月17日前後の正澄の居所をはっきりさせる必要があります。むろん、人質作戦を考えたのは三成かもしれませんし、三成に全く責任がないとは云えませんが。
 笠谷和比古氏・黒田慶一氏の「豊臣大坂城」(新潮選書)に、細川ガラシャの自害についての記述があります。
 オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)に、「大阪カテドラル聖マリア大聖堂」や大坂の細川屋敷にあった井戸跡とされる「越中井」も掲載しましたが、その「越中井」の碑文が「豊臣大坂城」に紹介されています。その一節に次のような部分があります。
 「石田三成等を頭に、忠興を牽制しようと思い、夫人を城中に誘致して、これを人質にしようと謀る。夫人応じず。三成等強要すること頻りであったが、固持して、遂に出なかった」などと。
 この碑文は新村出(にいむらいずる)氏選のものですが、江戸時代に書かれた書物などの記述によった見方です。上述の「魂をかけた決断 細川ガラシャ」の説明掲示板にも、石田三成が人質に連れて行こうとしたと書かれていますし、屋敷に火を放ったのは三成側だと記されており、三成奸臣説に基づいた書き方になっています。
 

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