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zoom RSS 石田三成の実像1441 笠谷和比古氏・黒田慶一氏「豊臣大坂城」2 千世の脱出路・西の丸天守の行方 

<<   作成日時 : 2015/08/05 10:08   >>

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写真は大阪カテドラル聖マリア大聖堂の西側に建つ「細川ガラシャ」の説明掲示板を昨年6月に撮ったものです。昨日の拙ブログ記事に貼付した「魂をかけた決断」のすぐ隣にあります。大聖堂の正面横に建っている細川ガラシャ像の写真も添えられています。
 慶長5年7月17日に細川ガラシャは細川屋敷で自害しましたが、その時、細川忠興の嫡男である忠隆の夫人の千世が細川屋敷から前田屋敷に逃げ込んでいます。そのルートについて、笠谷和比古氏・黒田慶一氏の「豊臣大坂城」(新潮選書)の中で、推定されています。
 細川屋敷の東隣には宇喜多秀家屋敷があり、千世は宇喜多屋敷を避けるために、細川屋敷の西の門を南下して、現在の久宝寺通りか、もう一本南の安堂寺橋通りを左折して、前田屋敷へ行ったのではないかと。宇喜多屋敷の南側が前田屋敷であり、安堂寺橋通りを通ったとすると、前田屋敷の西隣にある小出屋敷をぐるりと回ったことになります。小出屋敷があったと推定される地には、現在大阪女学院が建っています。  
 さて、同日付で出された「内府ちがいの条々」には、家康の罪状の一つとして大坂城の西の丸に勝手に天守を作ったことが挙げられています。原文では、この部分、「御本丸のことく殿守を被上候事」と記されています。
  この天守について、笠谷和比古氏・黒田慶一氏の「豊臣大坂城」(新潮選書)について次のような考察が加えられています。
 黒田家に残る「大坂夏の陣図屏風」に、大手正面の桜門の北側に「天守に匹敵する大櫓が描かれており」、これが家康の建てた天守であると記されています。さらに、この天守は「慶長6年3月、家康が大坂城を退去後、淀君たちが取り壊して詰めの丸の大手正面虎口の横」の「築台上」に「移した」ものだと指摘されています。この「築台」は「中井家本丸図」に描かれているものですが、拙ブログ記事でも「中井家本丸図」については豊臣時代の大坂城の正確な様子がわかる貴重なものだと述べました(大阪くらしの今昔館で「天下人の城大工 中井大和守の仕事V」の展覧会が開かれた時、「中井家本丸図」も展示されていました)。
 「豊臣大坂城」には、「宮上(茂隆)氏によると、中井家は家康の御大工だった正清(まさきよ)の父の正吉(まさよし)が、法隆寺村の大工を率いて、秀吉の大坂本丸築造の大工頭を務めたという。したがって本丸図は中井正吉のもとで作られ、中井家に伝来したものと考えられる」と記されています。
 正清(彼が中井家の初代)は家康に命じられて二条城、江戸城、駿府城、名古屋城などの天守を作り、二代目の正侶(まさとも)は豊臣家滅亡後、徳川大坂城を作っています。
 
 
 
 

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