関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 大阪探訪110 もりのみやキューズモール 夏の陣400年43「豊臣大坂城」3 旧日生球場内に堀跡なし

<<   作成日時 : 2015/08/08 12:00   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 
画像
 写真はもりのみやキューズモールの屋上に作られたエアトラックを5月5日に撮ったものです。商業施設(スポーツジムなどもあります)の上にトラックが作られたのは初めてのことで、元陸上選手でオリンピック銅メダリストである朝原宣治さんが監修しました。
 長さは300メートルあり、誰でも走れますし、歩けます。もっとも、もともと走って練習するためのトラックですから、歩くのは邪道ですが、オープンしてまもない時期だったので、もの珍しさもあって歩いている人が大半でした。私も一周歩いて、トラックの長さを実感しました。
 ここにはかつて日生球場があり、近鉄バッファローズの実質的な本拠地でした。私は小学生の頃、父親に連れられて近鉄の試合を見に行ったことがありますし、後に高校野球の大阪府大会にも行ったことがあります。プロ野球は、子供の頃は、大阪球場で南海ホークスの試合を見に行ったこともありますが、両球場とも今はなくなってしまったのは寂しいことです。甲子園に観戦に行ったのは、大人になってからです(当時、家から甲子園までは時間的に遠かったということもありますが)。
 さて、笠谷和比古氏・黒田慶一氏の「豊臣大坂城」(新潮選書)の中で、1998年度に行われた旧日生球場内で行われた試掘調査の結果が掲載されています。「ほぼ全域で層厚2・5〜3・0メートルの上町台地の洪積土を用いた盛土層が確認されたが、松尾氏図のような堀跡は存在しなかった」と。
 「松尾氏図」とは、松尾信裕氏の「大三の丸」説に基づく「復元図」であり、「大三の丸」は「周囲3里の巨大なものであ」り、「三の丸の一部、生玉口馬出し堀の西限を谷町筋に、玉造口馬出し堀を、旧日生球場を縦断する巨大なものとして復元している」と説明されています。
 要するに、旧日生球場には三の丸の堀があったとするのが松尾氏の説ですが、実際は堀はなく、その説が否定されたというわけです。発掘された盛土は、旧日生球場の北にあった「玉造口馬出し堀を掘った際の排土の可能性が高いだろう」と、「豊臣大坂城」の中で指摘されています。
 「玉造口馬出し堀」があった場所は、現在は大阪城公園の中であり、公園の南にある旧日生球場のところまで堀は及んでいず、旧日生球場のところは三の丸の外側であったことが、試掘調査で確かめられたわけです。
 大坂城第四期工事は秀吉が亡くなる直前の慶長3年(1598)に始まったものであり、従来「大三の丸」がこの時期に造成されたと考えられてきましたが、それに対する否定的見解が、「豊臣大坂城」で展開されています。「豊臣大坂城第四期工事が『三の丸造成』というよりも、町中屋敷替えと惣構え内の大掛かりな嵩上(かさあ)げに重点が置かれていることがわかった」と記されています。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
大阪探訪110 もりのみやキューズモール 夏の陣400年43「豊臣大坂城」3 旧日生球場内に堀跡なし 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる