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zoom RSS 大阪探訪111 もりのみやキューズモール2 夏の陣400年44「豊臣大坂城」4 第四期工事の実態

<<   作成日時 : 2015/08/09 18:57   >>

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写真はもりのみやキューズモールの屋上のエア・トラックからの眺めを5月5日に撮ったものです。この日は前述したように、安居神社で真田幸村公戦没400年祭が開かれ、その後、一心寺、四天王寺、生まれ育った近辺、上本町ハイハイタウンの真田幸村のオブジェ、道頓堀の安井道頓の碑を見た後、地下鉄でここに来ました。この後、中之島公園のバラ園、木村重成顕彰碑などを見て回りました。
 写真でもわかるように、もりのみやキューズモールはゴールデン・ウィーク中で大いに賑わっていましたが、一階ではライブも行われており、一層混雑していました。
 ここ旧日生球場跡には、豊臣時代は三の丸の堀があったと思われてきましたが、その根拠は、伊達政宗一代記である「僊台武鑑(せんだいぶかん)」の「大阪冬の陣配置図」と宣教師フランシスコ・パシオの「1598年度日本年報」に、「(大坂城に新しく)巡らせた城壁の長さは三里にも及んだ」などという記述であることが、笠谷和比古氏・黒田慶一氏の「豊臣大坂城」(新潮選書)に記されています。大坂城の第四期工事によって、三の丸は新たに大きく城壁で囲まれ、南側は旧日生球場跡から西側の難波宮跡をぐるりと回っているというのが、「大三の丸説」です。
 しかし、旧日生球場跡の発掘調査の結果、堀がないことがわかり、三の丸の南限は本町通りを挟んだ北側の大阪城公園にとどまることが明らかになりました。
 パシオの記述にある「城壁」については、同書に、「『三の丸』に止まるのではなく、城全体を囲んでいた『惣構え』全体の嵩上げ構築のことである」とあり、「確かに、玉造口・生玉口・京橋口などの虎口に馬出し曲輪を造成したように三の丸の堀・城壁を構築したのは事実であるが、それは外郭をもう一回ぐるりと囲むというよりも小規模な工事で、少人数でも城を守ることのできる、より効果的なものであった」と指摘されています。
 同書によると、大坂城の工事は、本丸を建設した第一期工事、二の丸堀を建設した第二期工事、大坂城の外周を囲い込む惣構え堀を掘削する第三期工事、惣構え全体の嵩上げ整備と船場建設の第四期工事からなると説明されています。
 第一期工事は天正11年(1583)年から行われましたが、大坂(石山)本願寺を基礎としており、すでにあった土塁を総石垣に化粧し、新たな建物を作ったために、早く出来上がったことが同書で指摘されています。秀吉が大坂城に引っ越ししたのは、天正12年8月ということも同書に記されていますが、この点について、藤田讓治氏の「豊臣秀吉の居所と行動(天正10年以降)」(『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】)には、「8月4日大津より大坂へ」「17日有馬へ」「19日有馬在」「27日有馬発」「30日大坂在」などと記されています。三成も秀吉に同行していたのでしょうか。

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