関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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<<   作成日時 : 2015/09/15 10:51   >>

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 写真は宮津城の復元城壁を8月27日に撮ったものです。復元されたものとは云え、このあたりはそばに流れている大手川の景観と調和して、城下町の雰囲気を残しています。城壁の向こうにカトリック宮津教会が建っているのが見えますし、ガラシャ夫人の像の一部もかすかに見えます(木の陰に隠れています)。ガラシャ夫人がキリシタンになったのは、細川家の大坂屋敷へ移ってからですが、宮津時代からキリスト教に関心がなかったとは云えません。
 慶長5年7月17日、ガラシャ夫人が大坂屋敷で自害したのは、大坂城に人質に入るべく三成勢が押しかけ、それを拒んだからだとされていますが、三成自身は佐和山にいたと思われ、この件に直接三成は関わっていませんでした。もっとも、人質作戦を指示したのは三成だったかもしれず、その点で責任がなかったとは云えません。もっとも人質を取るというのは、この時代は一般的でしたし、秀吉は伏見城の大名屋敷に大名の妻子を住まわせましたし、家康も家康暗殺事件の際に前田家を屈服させるため、利家の夫人であったまつを江戸城に移し、人質としています。
 三成の絶筆とされる9月12日付の増田長盛宛の書状に大坂城の人々の鈍い動きを促すため、人質の数人を成敗すれば心中も変わると諸将が言っているということを記していますが、私自身、この書状は三成が書いたものか疑問に思っており、偽書の可能性もあるのではないかと考えています。
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 写真は宮津城の太鼓門を撮ったものです。今は宮津小学校の正門になっています。宮津城主が細川幽斎以来、目まぐるしく変わったのは前にも触れましたが、本庄家が城主となってからは明治維新まで続きました。本庄家は、親族のお玉(桂昌院)が家光の側室になり、綱吉を生んだことによって、大名に取り立てられましたが、家光の側室として別にお振りの方という女性がおり、彼女は三成の血を引く女性でした。すなわち、三成の次女が嫁いだ岡半兵衛重政の孫が、お振りの方であり、彼女は千代姫を生み、千代姫は尾張藩二代藩主の徳川光友に嫁ぎ、三代藩主の綱誠(つななり)を生んでいます。三成の血が徳川将軍家、尾張藩に入ったわけです。お振りの方(自証院)の御霊屋はか江戸東京たてもの園にあり、墓所が市ヶ谷富久町自証院にあります。これらのことは、白川亨氏の「石田三成とその一族」(新人物往来社)に詳しく記されています。

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