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zoom RSS 石田三成の実像1463  片桐昭彦氏「上杉景勝の勘気と越後一揆」5 堀秀治は西軍に書状を送ったか

<<   作成日時 : 2015/09/18 10:14   >>

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片桐昭彦氏の「上杉景勝の勘気と越後一揆」(谷口央氏編『関ケ原合戦の深層』【高志書院】所収)の中で、慶長5年8月5日付の真田昌幸ら宛ての三成書状の文言が取り上げられています。すなわち、「越後(堀秀治)からも秀頼に従い味方すると申してきたと述べている」と。これについて、「真相はともかく、秀治が上方につくという情報が兼続に伝えられた可能性があろう」と指摘されています。
 「しかし、実際には」「堀秀治は、8月6日時点では国内各所で起きる一揆を成敗する姿勢を崩してはおらず、8月7日付けで堀直寄が家康から感状をもらったことからも徳川方へ従う姿勢は一貫していたとみられる」とも記されています。
 三成が堀秀治から味方すると申し述べてきたと言っているのは、状況から見て、昌幸を安心させるための方便だと考えられますが、ひょっとしてこの時点で実際そういう書状を三成たち西軍らに送ってきたのではないかという気もします。
 片桐の同書では、8月25日付の宇喜多秀家・毛利輝元・前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家宛の上杉景勝書状が取り上げられています。
 その書状の内容は次のようなものです。
 「越後について景勝は、堀秀治らは江戸へ人質を差し出し家康に一味したので、一揆等を起こさせ軍勢を遣わし討ち果たそうとしたが、秀治が秀頼に忠節を誓い、越中への攻撃なども命じられたとのことであるので、懇意にする旨を申し届け、一揆等は鎮めた」と。
 この書状から、片桐氏は「堀氏は三成らの奉行衆方と徳川方の両方と関係を維持しようとしていたことがわかる」と指摘されています。この時点では、堀氏は「秀頼に忠節を誓い」とあるので、西軍とコンタクトを取っていたと思われますから、7月下旬から8月の初めにかけても堀氏は西軍に書状を送ってきた可能性もあるのではないでしようか。むろん、一方で堀氏は越後一揆を鎮圧していますから、状況がどうなるか分からない中で、西軍東軍両方へコンタクトを取っていたというのが実情ではなかったでしょうか。
 片桐氏の同書では、「越後一揆の主導的な役割を果たしたのが直江兼続であったこと」、直江兼続宛て上杉景勝書状写から、「若松に在城する景勝のそば近くに兼続はいなかったことか明らかで」、「兼続は景勝に密な連絡を怠っていたことがうかがえる」と指摘されています。こういうことからすれば、直江兼続は上杉景勝から独自の行動を取ることを許されており、それだけ兼続が景勝の全幅の信頼を得ていたこともうかがえます。
 
 
 
 

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