関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1454 石畑氏「増田長盛と豊臣の『公儀』」7 大老より上位の位置づけを目論んだ奉行

<<   作成日時 : 2015/09/02 12:14   >>

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 慶長5年(1600)7月17日に出された家康弾劾状である「内府ちがひの条々」の中に、「年寄共内弐人追籠られ候事」という文言があります。「年寄」の二人とは、浅野長政と石田三成のことです。浅野長政は家康暗殺事件に連座して蟄居し、三成は七将襲撃事件の際、家康の裁定でその責任を取らされる形で佐和山に隠居させられます。
 また「内府ちがひの条々」では、「五人之奉行衆之内、羽柴筑前方事」という文言もあり、「羽柴筑前」とは前田利長のことです。
 家康たちが五大老、三成たちが五奉行というのが一般的ですが、この書状では反対になっています。
 この点についても、石畑匡基氏の「増田長盛と豊臣の『公儀』」(谷口央氏編『関ケ原合戦の深層』【高志書院】所収)で論じられています。
 堀越裕一氏の見解が切畑氏の同書で紹介されています。すなわち、五奉行らが「『年寄』と称し、『五大老』を『年寄』( 注 『五奉行』?)と呼称していることから、『従来の奉行人的位置づから脱却し、より豊臣家と密接な関係を有し、職務的にも大きな権限を持つ【豊臣家年寄】たる存在として自らを位置づけようとし』たと推測する」、家康は「少なくとも慶長4年中頃まで『五奉行』を『年寄』と呼んでいた」と。
 切畑氏は慶長5年7月14日付の毛利輝元宛の前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署状について、前述したように、三成決起を抑えるために輝元に上坂を要請していることから、長盛たちに「秀吉死後に『公儀』の中心と自認していた姿を見ることはできない。当初、『五大老』の上位に自身を位置づけることを目論んだ『五奉行』はこの時期には自身が『五大老』の下位にあると自覚していたと推測されよう」と記されています。
 もっとも、「内府ちがひの条々」に添えられた、7月20日付の大谷吉継の副状に、「長盛ら三奉行を『御奉行衆』と呼んで」おり、「西軍内からも長盛らは『奉行』とみなされていた」ことも指摘されています。
 切畑氏の同書では、「そのことが関係してか、長盛らは『内府ちがひの条々』を発給したにも関わらず、家康に従い会津征討へ向かった豊臣恩顧の大名のほとんどを振り向かせることはできず、『西軍』の敗戦という結果に終わるのである」という見解が示されています。
 しかし、長盛らが「奉行」という立場にいたままだったことが、関ヶ原の敗戦につながったという見方は極端過ぎるという気がします。もっとも、この問題は「奉行」が西軍の中でどのような位置づけであったのかという問題も含めて今後の検討課題でしょう。

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