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zoom RSS 石田三成の実像1467 旅行記40 名護屋・福岡旅行2 野元の三成陣跡・中井氏の陣替説を裏付ける史料

<<   作成日時 : 2015/09/24 18:17   >>

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 唐津市の野元にある、三成の陣跡と伝わる付近を9月20日に撮ったものです。土塁のようなものが写っています。薄暗い林の中であり、同行人たちの中には蚊にさされた人もいました。ここは名護屋城の南東に位置し、かなり離れた場所にあります。本当にこんな離れたところに三成の陣跡があったのかと思いたくもなりますが、名護屋城に続く太閤道には一応面したところにはあります。ほとんどの名護屋城の陣跡配置図には、三成の陣跡は野元と記されています。
 オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の中井俊一郎氏が執筆された「肥前・名護屋」の章の中で、三成の陣は最初名護屋城の近くにあったものの、後に陣替が行われ、野元に移されたのだと論じられています。
 名護屋城の近くに三成の陣所があったという根拠について、佐竹家の被官であった平塚滝俊の書状が挙げられています。そこには、「当家の陣所の北側の峰に石田殿の陣所があります。一人涼しい地形にあります。前の方の峰に大谷吉継の陣所です。その前には上杉景勝殿の陣所があります」と。
 中井氏の同書ではこれらのことから、「三成の陣場は名護屋城の北方・波戸(はど)岬にあったと推定される」と述べられています。
 このことについて、名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」の中で、「肥前名護屋城図屏風」(群馬県伊勢崎市個人蔵・本館寄託)が掲載され、他の配陣図類と異なる点として、三成の陣の位置の違いが挙げられています。すなわち、「石田三成陣が一連の配陣図では名護屋南東側の野元方面に描かれるのに対して、本史料では名護屋北西側の波戸方面に描かれていることであり、このことは常陸水戸の佐竹氏家臣である平塚滝俊の書状(天正20年5月1日付)に記されている状況と合致することから、一連の配陣図とは異なる史料の存在も窺われ、また、大名陣屋の陣替等の可能性も指摘される」と。
 また「肥前名護屋城並陣図」(本館蔵)も図録に掲載されていますが、その解説には、次のようなことが書かれています。「石田三成陣(名護屋浦奥に書くものと石田陣の無い配陣図もある)を名護屋城北西側の蒲生氏郷陣に隣接して記している」と。
 もっとも、蒲生氏郷の陣は、佐竹義宣の陣より少し南東に当たりますが、それでも名護屋城の北西側という点に変わりありません。
 こういう史料の存在が、三成の陣地の陣替が行われたとする中井氏の見解を裏付けています。われわれは野元の陣跡を見た後、最初の三成の陣があったと思われる生駒親正や佐竹義宣の陣跡に向かいました。

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