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zoom RSS 石田三成の実像1468 旅行記41 名護屋・福岡旅行3 生駒親正の陣跡・三成の最初の陣跡推定地

<<   作成日時 : 2015/09/25 10:42   >>

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 写真は波戸岬公園の生駒親正の陣があったあたりを9月20日に撮ったものです。向こうに海が見えています。三成の最初の陣があったのは、平塚滝俊の書状などから、この付近だと思われます。波戸岬公園は見晴らしがよく、海の景色も楽しめます。今は波戸岬は恋人たちのデートスポットになっているようです。隔世の感のあるような気がしますが、平和なことはよいことです。
  オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の中井俊一郎氏が執筆された「肥前・名護屋」の章の中で、三成の陣が波戸岬から、遠く離れた野元に移された理由について、次のように記されています。
 「文禄の役で、戦略・外交・講和交渉を主導した三成だが、慶長の役ではその活動は限られている。秀吉と見解が対立した三成は、朝鮮の役の主役から降ろされたのかもしれない。主役から降ろされたものには、有利な場所は必要ない」と。
 平塚滝俊書状によれば、大谷吉継の陣も三成の陣の近くにあったということが記されています。昨日付の拙ブログ記事で紹介した、名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」の中に掲載されている「肥前名護屋城図屏風」(群馬県伊勢崎市個人蔵・本館寄託)にも、石田陣に加えて大谷陣も波戸周辺域にあることが記されています。
 文禄の役の際、秀吉に代わって増田長盛・大谷吉継・石田三成が奉行として朝鮮半島に渡っていますが、増田長盛の陣も波戸にありました(生駒親正の陣の西側)から、当時、三奉行の陣が共に波戸にあった可能性が高いのではないでしょうか。
 なおこの「肥前名護屋城図屏風」について、図録には「近年、群馬県佐波郡の旧家で、名護屋城博物館所蔵の『肥前名護屋城図屏風』の模本と推定される屏風絵の存在が公に明らかになった」と記されていますが、この図録が発行されたのは平成21年(2009)のことです。
 また「本屏風絵の特徴の1つに、陣主の記載が詳細に為されていることが挙げられ」ることも記されていますが、それによって、三成の陣跡が波戸方面にあることがわかったわけです。
 しかし、この付近が三成の陣跡であるとの表示は現地にはどこにもありません。上の写真を撮ったそばに、「生駒親正陣跡」のパネルが建っており、生駒親正の略歴や陣跡についての説明がされています。陣跡の説明の中で、「北条氏盛陣跡と佐竹義宣陣跡の間に位置し、現在は玄海国定公園の一部となっています。全体が陣跡と推定され」るなどと記されています。もっとも、図録の「名護屋城跡・陣跡位置図」には、生駒親正の陣跡の東の湾岸に「不明」と記されているところがありますが、ここが三成の陣跡、もしくはその一部だったという可能性もあるのかもしれません。
 

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