関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1469 旅行記42 名護屋・福岡旅行4 生駒親正の陣跡・三成の最初の陣跡推定地2

<<   作成日時 : 2015/09/26 21:32   >>

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写真は波戸岬公園の生駒親正の陣跡とされる場所(三成の最初の陣跡の推定地でもあります)を9月20日に撮ったものです。石塁の跡が写っていますが、ところどころに石塁や土塁の跡が見られました。散歩道もついており、陣跡を見ながら散策することができますし、実際、散歩している人の姿も見かけました。そばには広い駐車場があり、車で行けるようになっています。
 三成は少なくとも二千人の家臣を動員していますから、陣場としてある程度の広さが必要です。名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」の中に掲載されている「『秀吉公名護屋御陳之図ニ相添候覚書』(九州大学蔵)の内、諸大名等の陣場地名部分の翻刻」には「弐千騎 石田治部少輔」と記されています。もっとも、ここでの三成の陣地名は「野本」となっていますが。
 また「文禄2年3月10日付の豊臣秀吉印『覚』による布陣計画」(中野等氏『戦争の日本史16 文禄・慶長の役』【吉川弘文館】所収)の中で、「もくそ城とりまき候衆」に続いて「備前宰相組」が掲載されており、その中に「2000人 石田三成(石田治部少輔)」と記されています。「もくそ城」とは晋州城のことで、この時期、秀吉は漢城からの撤退を認めつつも、晋州城攻撃を命じています。もっとも、三成自身は和平交渉に従事していましたから、晋州城攻めには加わっていませんが、家臣団はこの戦いに動員されたものと思われます。
 一方、生駒親正は朝鮮半島に最初渡った日本軍の「5番隊」として加わっており、兵の数は「5500人」です(天正「3月13日付『陣立書』の軍団構成」【中野氏の同書】所収)。また上述の「文禄2年3月10日付の豊臣秀吉印『覚』による布陣計画」には、三成と同様「備前宰相組」に加わっており、生駒親正は「4000人」と記されています。
 生駒親正の陣跡にある説明パネルには、「軍役五千人で長男の一正とともに名護屋に参陣し」たと記されています。
  もし波戸に最初三成の陣があり、後に生駒親正の陣に変わったとすれば、逆に当初の生駒親正の陣はどこにあったのかという疑問が生じます。このあたりは今後の検討課題でしょう。
 なお、生駒親正の陣跡の説明パネルには、生駒親正が「中村一氏や堀尾吉晴と共に三中老と呼ばれ、豊臣政権の重要人物」だったこと、「讃岐国17万石を領し、高松城(玉藻城)や丸亀城(亀山城)を築」いたこと、関ヶ原の戦いでは息子の一正は東軍に属したものの、「親正は豊臣秀頼の命により西軍に参加して丹後国の田辺城攻めを行」ったこと、「戦後は高野山で蟄居(謹慎)し、その後、高松城で死亡」したことなども記されています。

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