関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1470 旅行記43 名護屋・福岡旅行5 佐竹義宣の陣跡・「備前宰相組」の多くは西軍

<<   作成日時 : 2015/09/27 11:34   >>

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写真は唐津市にある佐竹義宣の陣跡があったと思われる小高い丘を9月20日に撮ったものです。生駒親正の陣跡(三成の最初の陣跡の推定地でもあります)のすぐ南にあります。写真を撮っているところからは登れなかったので、別の道を見つけ出し、数人で登ってみたのですが、中腹にある天狗神社までしか行けませんでした。しかし、位置から云えば、そこが佐竹義宣の陣跡ではないかと思われます。もっとも、佐竹義宣の陣跡だとする説明パネルのようなものは見出せませんでしたが、別の登り口があるのかもしれないものの、時間の関係で、それ以上の探索はせず、車で次に上杉景勝の陣跡に向かいました。
  三成と佐竹義宣の友誼については、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「羽後・秋田」の章で詳しく述べられています。また慶長4年閏3月に、武断派7将が三成たち奉行衆を襲撃しようとした時、佐竹義宣が三成を匿ったという話も残っています。
 関ヶ原の戦いでは、佐竹義宣は三成の味方をしようとしましたが、佐竹氏内部をまとめられず、動けませんでした。
 昨日付のブログ記事で取り上げた、名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」の中に掲載されている「『秀吉公名護屋御陳之図ニ相添候覚書』(九州大学蔵)の内、諸大名等の陣場地名部分の翻刻」には「五百騎 佐竹修里太夫」と記されています。もっとも、人数が少なすぎますが。
 一方、これも取り上げた、「文禄2年3月10日付の豊臣秀吉印『覚』による布陣計画」(中野等氏『戦争の日本史16 文禄・慶長の役』【吉川弘文館】所収)の中で、「もくそ城とりまき候衆」に続いて「備前宰相組」が載っていますが、その中に佐竹義宣も三成と並んで名があり、「3000人 佐竹義宣(羽柴常陸侍従)」と記されています。「備前宰相」は宇喜多秀家のことであり、「備前宰相組」に属した人物のうち、関ヶ原の戦いで西軍に属した者、西軍寄りの者が多いことに気が付きます。宇喜多秀家、生駒親正、石田三成、佐竹義宣がそうであり、違うのは文禄の役で亡くなった加藤光泰、秀次事件の際に自害した前野長康だけです。加藤光泰は三成に毒殺されたという俗説がありますが、三成が蒲生氏郷を毒殺したという話と同様、根拠がないものであり、江戸時代の三成奸臣説の一環だと思われます。
 前野長康については、吉田蒼生雄氏の「前野長康」(『歴史と旅 1999年4月号』【秋田書店】)の中で、三成と長康は「『早期講和締結』を念頭に、常に行動を共にしている」こと、秀次事件の際、「三成は、長康と木村常陸介の両後見役を必死に庇い、秀吉に執り成しを続け、両後見役の連座を防ぐことが出来た」ものの、「両後見役も自ら責任を取って自害してしまった」ことなどが記されています。

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