関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1471 旅行記44 名護屋・福岡旅行6 上杉景勝陣跡・名護屋にいたのは一年半足らず

<<   作成日時 : 2015/09/28 11:01   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

画像
 写真は名護屋の上杉景勝陣跡と思われる場所の、藪の奥に見える石垣を9月20日に撮ったものです。景勝の陣跡は生駒親正の陣跡(三成の最初の陣跡の推定地)、佐竹義宣の陣跡から南に進み、さらに蜂須賀家政の陣跡を越えた南側にあります。景勝の陣跡は細い道を入ったところにあり、なかなかわかりにくいところにありました。もっとも、写真の石垣を登ることはできませんでしたし、あたりは林や藪ばかりでその中に入る道はありませんでした。道をぐるりと回って陣跡に入れないものかと試みましたが、駄目でした。しかし、陣跡の位置としては写真を撮ったあたりです。
  上杉景勝が名護屋に来た時期、名護屋での動向、及び渡海した時期について、尾下成敏氏の「上杉景勝の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】)に次のように記されています。
 天正20年3月「17日、京都を発ち、名護屋へ向かった(『御年譜【景勝】』)」、「名護屋到着は4月上旬とされる(『御年譜【景勝】』)」、翌文禄2年「1月10日、名護屋の陣所で連歌の会を開いている(『年表』)。5月15日、明の使節と称する人物が名護屋に到着し、23日、秀吉と対面した。景勝もその場に列座していたと伝えられる(『太閤』)。同月下旬、景勝は秀吉の『御代』として朝鮮へ渡海し、熊川倭城の普請に当たることになった」、「6月6日、景勝は名護屋を発ち出船しようとしたが、風波により、同地へ押し戻された(『大和田』)。その後、海を渡った」、「熊川倭城の普請を済ませると、名護屋へ帰還した。9月8日の出来事とされる」、「9月29日付で秀吉は景勝に」「入京した上で帰国し休息せよと指示したのである。これを受け、景勝は京都に向かい、10月3日、秀吉の参内に従った(『時慶』)」と。
 この後、景勝は名護屋に向かうことはありませんでした。よって、景勝が名護屋にいたのは1年半に満たない期間であり、朝鮮半島にいたのはほんの数ヶ月のことです。上述の文中に「明の使節と称する人物が名護屋に到着し」たとありますが、彼らを連れてきたのは、増田長盛、大谷吉継、小西行長、そして三成でした。しかし、長盛、吉継、三成は秀吉が明の使節と会った翌日に、名護屋を発って朝鮮に戻っています。もっとも、三成らは日本に留まった明の使節を再び、朝鮮半島に送るために、その後また名護屋に戻ってきますが。
 むろん、直江兼続も上杉景勝と行動を共にしており、名護屋へ行く時も帰る時も、朝鮮半島に渡海する時も名護屋に戻る時も常に一緒でした。花ケ前盛明氏監修の「直江兼続関連年表」(『新・歴史群像シリーズ 直江兼続』【学研】所収)には、天正20年3月「22日 景勝・兼続、肥前名護屋城にて博多の貿易商神谷宗湛より茶の湯の招待を受ける」ということが記されています。博多の宗湛の屋敷跡、墓には、名護屋を回った翌日に訪ねましたが、それについては後述します。 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1471 旅行記44 名護屋・福岡旅行6 上杉景勝陣跡・名護屋にいたのは一年半足らず 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる