関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1472 旅行記45 名護屋・福岡旅行7 直江兼続の陣跡・上杉氏の中でも特別な存在

<<   作成日時 : 2015/09/29 12:50   >>

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 写真は名護屋(唐津市)の直江兼続の陣跡を9月20日に撮ったものです。正面に見える丘がそうです。写真に向かって左側に見えているのが上杉景勝の陣跡です。写真は西に向かって撮っており、地図でも直江兼続の陣跡は上杉景勝の陣跡の西に位置しています。
 直江兼続の陣が上杉景勝の陣とは別にあるということ自体、上杉氏の中においても豊臣政権においても特別な存在であることを語っているのではないでしょうか。花ケ前盛明氏監修の「直江兼続関連年表」(『新・歴史群像シリーズ 直江兼続』【学研】所収)には、天正16年(1588)「8月17日 兼続、従五位下を賜り、豊臣姓を許される」と記されています。「従五位下」と云えば、三成と同じ官位ですが、「豊臣姓を許される」ということからも、秀吉が兼続にかけた期待の大きさがわかります。秀吉は三成から兼続の逸材ぶりや仲のよさを聞き及んでいたということも考えられ、そういうこともあっての厚遇かもしれません。むろん、上杉氏との関係を密にしたいという秀吉の思惑もあったからでしょうが。
 関ヶ原の戦いの前哨戦とも云える越後一揆を主導していたのは兼続であり、その時、兼続は景勝のもとを離れて独自の行動を取っていたことが、片桐昭彦氏の「上杉景勝の勘気と越後一揆」(谷口央氏編『関ケ原合戦の深層』【高志書院】所収)の中で、明らかにされています。兼続はそれだけの権限を景勝から与えられていたわけです。
 片桐氏の同書には、慶長5年8月4日付の兼続宛上杉景勝書状が取り上げられています。その書状には「景勝は、南山(大国実頼)や米沢表は変わりないとのことであるが、兼続のもとへ届く情報や関東・下筋の様子に変わったことがあれば知らせてほしいとし、上方からはそれ以来知らせがないと述べている」ことが記され、こういう内容から「兼続は景勝に密な連絡を怠っていることがうかがえる」と指摘されています。
 兼続はその2日後の8月6日に景勝側近の清野助二郎宛に発した書状を発していますが、その書状には「釈明も込めた書状を送り景勝への披露を求めた」ことが記され、この時「兼続は、関東に近い白河近辺(白河表)にいた可能性が高い」と指摘されています。兼続がいろいろな情報を握り、工作もしていたことがうかがえますし、景勝が兼続を信頼しつつも、知らせがないことに多少イライラしていたという状況もわかるような気がします。
 名護屋での兼続ですが、上述の「直江兼続関連年表」には、天正20年「4月 兼続、名護屋滞在中、済世救方三百巻を借りて写す」と記されています。「済世救方」は医学書であり、兼続が勉強熱心であったことがわかりますし、朝鮮半島に渡った時もたくさんの書物を集めて、名護屋に戻っています。「宋臣言行録」、「大明一統志」、「新編古今事文類聚」など。
 

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