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zoom RSS 石田三成の実像1473 旅行記46 名護屋・福岡旅行7 名護屋城址碑・縄張りは黒田官兵衛?普請時期

<<   作成日時 : 2015/09/30 18:15   >>

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  写真は名護屋城址の碑を9月20日に撮ったものです。前述したように、駐車場そばのレストランで昼食を取ったあと、名護屋城址を1時間半ほどかけて見て回りました(この後、野元の三成陣跡、最初の三成陣跡だと思われる生駒親正陣跡や佐竹義宣陣跡、上杉景勝陣跡を訪ねました)。この碑は大手口のところに建っており、ここから名護屋城址の中を回れるようになっています。
 名護屋城は黒田官兵衛が縄張りをしたと一般には考えられており、去年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の名残でしょうか、名護屋城址のあちらこちらに「黒田官兵衛縄張りの城」という幟が建っていました。
 これは「黒田家譜」の記述に基づくものであり、名護屋城博物館発行の図録「秀吉と文禄・慶長の役」には、「黒田家譜」のその部分が掲載されており、次のように解説されています。
 「名護屋城の普請に関しては、『黒田家譜』等によれば、黒田孝高が縄張りをし、黒田長政を惣奉行として、天正19年10月より『斧切』=普請を開始し、わずか4〜5ヶ月後の翌年2月には完成されたとされている。(諸説有り)」と。 
 「黒田家譜」は黒田家に都合のよいことが書かれている可能性があるので、本当に黒田孝高が縄張りをしたのかどうかについては、検証が必要だと思われます。
 もっとも、普請が始まった月日に関しては、同図録に掲載されている、天正10年10月24日付の琉球の中山王宛の島津義久書状の中にも「10月10日からの『関白様旅閣』の普請に関する記述が見られる」とあり、「黒田家譜」と一致しています。
 黒田長政が普請に関わったことを示す史料として、天正19年8月23日付の相良頼房宛の石田正澄書状が同図録に掲載されており、その書状について、次のように解説されています。
 「秀吉の子鶴松の死を伝え、秀吉を始め周囲の者が皆元結を切ったこと、秀吉が聚楽第を秀次に委譲すること、秀吉が来年3月に『唐』へ出兵する決意であり、出陣の準備をすること、名護屋の御座所普請が黒田長政・小西行長・加藤清正等の九州諸大名に命じられている事等が記される。大陸侵攻における根拠地としての名護屋(城)の普請に触れた早い段階の史料である」などと。
 この書状について、水野伍貴氏の「石田正澄と石田三成」(『歴史読本』2011年12月号)のに中で、「秀吉からの命令伝達ではなく、頼房が豊臣政権と円滑な関係を維持できるように善意で政権中枢の情報を報じたという特徴がある。もっとも、頼房の主要な『取次』は三成であったが、正澄も三成とは別ルートの『取次』として活躍していたのである」と指摘されています。
 

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